文学作品に身を委ねて~太宰治『走れメロス』~

メロディスムーズプラスマンハッタナーズ 白のネコラージュ
マンハッタナーズステッキ折り畳み フェデリコの記憶

起承転結がまとめられて、短い時間でも物語を完結できる短編小説。
有名な文豪たちの短編小説の中には、国語の教科書に載っているものも多くあります。
時間が経った今でも印象に残っている作品があるのではないでしょうか。
今回はそんな教科書にも載る有名な作品、太宰治の「走れメロス」です。
皆さんも懐かしい気持ちに浸りながら読み直してみませんか。

 

今も多くの人に愛される文豪

近代文学で有名な文豪は沢山いますが、『太宰治(だざいおさむ)』といえば知らない人もほとんどいないのではないでしょうか。
第二次世界大戦から戦後にかけて数多くの作品を発表し、「無頼派(ぶらいは)」と呼ばれる近代の作風を示す一群にも称されました。
優れた作家でしたが精神的にデリケートな性格で、何度も自殺未遂を図ったり、腹膜炎の手術時の麻薬性鎮痛剤の薬物中毒を引き起こしたりとなかなか衝撃的な人生を送った作家です。
結婚し子供もいましたが、最期は愛人と入水心中し、38歳で死去しています。

今でも根強いファンが多い彼の作品は自身の経験や内面を基にしたものが多く、人間の弱さや脆さが人々の共感を得ています。
また、作品ごとに独特の語りや文法が使われており、読者を作品の世界に引き込んでくれます。
代表作としては活動中期頃に発表された『富嶽百景(ふがくひゃっけい)』『津軽(つがる)』、後期頃に発表された『人間失格(にんげんしっかく)』『斜陽(しゃよう)』『ヴィヨンの妻(ヴィヨンのつま)』などがあります。

今回紹介する『走れメロス(はしれメロス)』は中期に発表された短編小説です。
古代ギリシャの伝説『ダモンとピュティアス』とドイツの詩人「ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー」の詩『人質(ひとじち)』を基に、場面や心情変化を追加した作品です。
読みやすく理解しやすい作品のため、中学校の教材として定番化しています。
改めて読み直してみると、新しい気づきがあるかもしれません。
懐かしい気持ちに浸りながら読んでみてください。

 

マンハッタナーズ可動式

 


走れメロス
太宰治

 

 メロスは激怒げきどした。かならず、かの邪智じゃち暴虐ぼうぎゃくおうのぞかなければならぬと決意けついした。メロスには政治せいじがわからぬ。メロスは、むら牧人ぼくじんである。ふえき、ひつじあそんでくらしてた。けれども邪悪じゃあくたいしては、人一倍ひといちばい敏感びんかんであった。きょう未明みめいメロスはむら出発しゅっぱつし、山越やまこえ、十里じゅうりはなれた此のシラクスのにやってた。メロスにはちちも、ははい。女房にょうぼうい。十六の、内気うちきいもうと二人ふたりぐらしだ。このいもうとは、むら律気りちぎ一牧人いちぼくじんを、近々ちかぢか花婿はなむことしてむかえることになっていた。結婚式けっこんしき間近まぢかなのである。メロスは、それゆえ、花嫁はなよめ衣裳いしょうやら祝宴しゅくえん御馳走ごちそうやらをいに、はるばるにやってたのだ。ず、その品々しなじなあつめ、それからみやこ大路おおじをぶらぶらあるいた。メロスには竹馬ちくばともがあった。セリヌンティウスである。いまのシラクスので、石工いしくをしている。そのともを、これからたずねてみるつもりなのだ。ひさしくわなかったのだから、たずねてくのがたのしみである。あるいているうちにメロスは、まちの様子ようすあやしくおもった。ひっそりしている。もうすでちて、まちのくらいのはあたりまえだが、けれども、なんだか、よるのせいばかりではく、市全体しぜんたいが、やけにさびしい。のんきなメロスも、だんだん不安ふあんになってた。みちったわかしゅをつかまえて、なにかあったのか、二年にねんまえにたときは、よるでもみなうたをうたって、まちはにぎやかであったはずだが、と質問しつもんした。わかしゅは、くびってこたえなかった。しばらくあるいて老爺ろうやい、こんどはもっと、語勢ごせいつよくして質問しつもんした。老爺ろうやこたえなかった。メロスは両手りょうて老爺ろうやのからだをゆすぶって質問しつもんかさねた。老爺ろうやは、あたりをはばかる低声ていせいで、わずかこたえた。
王様おうさまは、ひところします。」
「なぜころすのだ。」
悪心あくしんいだいている、というのですが、だれもそんな、悪心あくしんってはりませぬ。」
「たくさんのひところしたのか。」
「はい、はじめは王様おうさま妹婿いもうとむこさまを。それから、御自身ごじしんのお世嗣よつぎを。それから、いもうとさまを。それから、いもうとさまの御子みこさまを。それから、皇后こうごうさまを。それから、賢臣けんしんのアレキスさまを。」
「おどろいた。国王こくおう乱心らんしんか。」
「いいえ、乱心らんしんではございませぬ。ひとを、しんずること出来できぬ、というのです。このごろは、臣下しんかこころをも、おうたがいになり、すこしく派手はでくらしをしているものには、人質ひとじちひとりずつすことをめいじてります。御命令ごめいれいこばめば十字架じゅうじかにかけられて、ころされます。きょうは、六人ろくにんころされました。」
 いて、メロスは激怒げきどした。「あきれたおうだ。かしてけぬ。」
 メロスは、単純たんじゅんおとこであった。ものを、背負せおったままで、のそのそ王城おうじょうにはいってった。たちまちかれは、巡邏じゅんら警吏けいり捕縛ほばくされた。調しらべられて、メロスの懐中かいちゅうからは短剣たんけんたので、さわぎがおおきくなってしまった。メロスは、おうまえされた。
「この短刀たんとうなにをするつもりであったか。え!」暴君ぼうくんディオニスはしずかに、けれども威厳いげんもっいつめた。そのおうかお蒼白そうはくで、眉間みけんしわは、きざまれたようにふかかった。
暴君ぼうくんからすくうのだ。」とメロスはわるびれずにこたえた。
「おまえがか?」おうは、憫笑びんしょうした。「仕方しかたいやつじゃ。おまえには、わしの孤独こどくがわからぬ。」
うな!」とメロスは、いきりって反駁はんばくした。「ひとこころうたがうのは、もっとずべき悪徳あくとくだ。おうは、たみ忠誠ちゅうせいをさえうたがってられる。」
うたがうのが、正当せいとう心構こころがまえなのだと、わしにおしえてくれたのは、おまえたちだ。ひとこころは、あてにならない。人間にんげんは、もともと私慾しよくのかたまりさ。しんじては、ならぬ。」暴君ぼうくん落着おちついてつぶやき、ほっと溜息ためいきをついた。「わしだって、平和へいわのぞんでいるのだが。」
「なんのため平和へいわだ。自分じぶん地位ちいまもためか。」こんどはメロスが嘲笑ちょうしょうした。「つみひところして、なに平和へいわだ。」
「だまれ、下賤げせんもの。」おうは、さっとかおげてむくいた。「くちでは、どんなきよらかなことでもえる。わしには、ひとはら綿わた奥底おくそこいてならぬ。おまえだって、いまに、はりつけになってから、いてびたってかぬぞ。」
「ああ、おう悧巧りこうだ。自惚うぬぼれているがよい。わたしは、ちゃんとぬる覚悟かくごるのに。命乞いのちごいなどけっしてしない。ただ、――」といかけて、メロスはあしもとに視線しせんおと瞬時しゅんじためらい、「ただ、わたしじょうをかけたいつもりなら、処刑しょけいまでに三日間みっかかん日限にちげんあたえてください。たった一人ひとりいもうとに、亭主ていしゅたせてやりたいのです。三日みっかのうちに、わたしむら結婚式けっこんしきげさせ、かならず、ここへかえってます。」
「ばかな。」と暴君ぼうくんは、しわがれたこえひくわらった。「とんでもないうそうわい。がした小鳥ことりかえってるというのか。」
「そうです。かえってるのです。」メロスは必死ひっしった。「わたし約束やくそくまもります。わたしを、三日間みっかかんだけゆるしてください。いもうとが、わたしかえりをっているのだ。そんなにわたししんじられないならば、よろしい、このにセリヌンティウスという石工いしくがいます。わたし無二むに友人ゆうじんだ。あれを、人質ひとじちとしてここにいてこう。わたしげてしまって、三日目みっかめ日暮ひぐれまで、ここにかえってなかったら、あの友人ゆうじんころしてください。たのむ、そうしてください。」
 それをいておうは、残虐ざんぎゃく気持きもちで、そっと北叟笑ほくそえんだ。生意気なまいきなことをうわい。どうせかえってないにきまっている。このうそつきにだまされたりして、はなしてやるのも面白おもしろい。そうして身代みがわりのおとこを、三日目みっかめころしてやるのも気味きみがいい。ひとは、これだからしんじられぬと、わしはかなしいかおして、その身代みがわりのおとこ磔刑たっけいしょしてやるのだ。なかの、正直者しょうじきものとかいう奴輩やつばらにうんとせつけてやりたいものさ。
ねがいを、いた。その身代みがわりをぶがよい。三日目みっかめには日没にちぼつまでにかえってい。おくれたら、その身代みがわりを、きっところすぞ。ちょっとおくれてるがいい。おまえのつみは、永遠えいえんにゆるしてやろうぞ。」
「なに、なにをおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だいじだったら、おくれてい。おまえのこころは、わかっているぞ。」
 メロスは口惜くちおしく、地団駄じだんだんだ。ものもいたくなくなった。
 竹馬ちくばとも、セリヌンティウスは、深夜しんや王城おうじょうされた。暴君ぼうくんディオニスの面前めんぜんで、ともともは、二年にねんぶりで相逢あいおうた。メロスは、とも一切いっさい事情じじょうかたった。セリヌンティウスは無言むごん首肯うなずき、メロスをひしときしめた。ともともあいだは、それでよかった。セリヌンティウスは、なわたれた。メロスは、すぐに出発しゅっぱつした。初夏しょか満天まんてんほしである。
 メロスはそのよる一睡いっすいもせず十里じゅうりみちいそぎにいそいで、むら到着とうちゃくしたのは、あく午前ごぜんすでたかのぼって、村人むらびとたちは仕事しごとをはじめていた。メロスの十六じゅうろくいもうとも、きょうはあにかわりに羊群ようぐんばんをしていた。よろめいてあるいてあにの、疲労困憊ひろうこんぱい姿すがたつけておどろいた。そうして、うるさくあに質問しつもんびせた。
「なんでもい。」メロスは無理むりわらおうとつとめた。「用事ようじのこしてた。またすぐかなければならぬ。あす、おまえの結婚式けっこんしきげる。はやいほうがよかろう。」
 いもうとほおをあからめた。
「うれしいか。綺麗きれい衣裳いしょうってた。さあ、これからって、むらひとたちにらせてい。結婚式けっこんしきは、あすだと。」
 メロスは、また、よろよろとあるし、いえかえって神々かみがみ祭壇さいだんかざり、祝宴しゅくえんせき調ととのえ、もなくゆかたおし、呼吸こきゅうもせぬくらいのふかねむりにちてしまった。
 めたのはよるだった。メロスはきてすぐ、花婿はなむこいえおとずれた。そうして、すこ事情じじょうがあるから、結婚式けっこんしき明日あしたにしてくれ、とたのんだ。婿むこ牧人ぼくじんおどろき、それはいけない、こちらにはなん仕度したく出来できていない、葡萄ぶどう季節きせつまでってくれ、とこたえた。メロスは、つことは出来できぬ、どうか明日あしたにしてくれたまえ、とさらしてたのんだ。婿むこ牧人ぼくじん頑強がんきょうであった。なかなか承諾しょうだくしてくれない。夜明よあけまで議論ぎろんをつづけて、やっと、どうにか婿むこをなだめ、すかして、せた。結婚式けっこんしきは、真昼まひるおこなわれた。新郎しんろう新婦しんぷの、神々かみがみへの宣誓せんせいんだころ、黒雲くろくもそらおおい、ぽつりぽつりあめし、やがて車軸しゃじくながすような大雨おおあめとなった。祝宴しゅくえん列席れっせきしていた村人むらびとたちは、なに不吉ふきつなものをかんじたが、それでも、めいめい気持きもちきたて、せまいえなかで、むんむんあついのもこらえ、陽気ようきうたをうたい、った。メロスも、満面まんめん喜色きしょくたたえ、しばらくは、おうとのあの約束やくそくをさえわすれていた。祝宴しゅくえんは、よるはいっていよいよみだはなやかになり、人々ひとびとは、そと豪雨ごううまったにしなくなった。メロスは、一生いっしょうこのままここにいたい、とおもった。このひとたちと生涯しょうがいくらしてきたいとねがったが、いまは、自分じぶんのからだで、自分じぶんのものではい。ままならぬことである。メロスは、わが鞭打むちうち、ついに出発しゅっぱつ決意けついした。あすの日没にちぼつまでには、まだ十分じゅうぶんときる。ちょっと一眠ひとねむりして、それからすぐに出発しゅっぱつしよう、とかんがえた。そのころには、あめ小降こぶりになっていよう。すこしでもながくこのいえ愚図愚図ぐずぐずとどまっていたかった。メロスほどのおとこにも、やはり未練みれんじょうというものはる。今宵こよい呆然ぼうぜん歓喜かんきっているらしい花嫁はなよめ近寄ちかより、
「おめでとう。わたしつかれてしまったから、ちょっとごめんこうむってねむりたい。めたら、すぐにかける。大切たいせつ用事ようじがあるのだ。わたしがいなくても、もうおまえにはやさしい亭主ていしゅがあるのだから、けっしてさびしいことい。おまえのあにの、いちばんきらいなものは、ひとうたがことと、それから、うそをつくことだ。おまえも、それは、っているね。亭主ていしゅとのあいだに、どんな秘密ひみつでもつくってはならぬ。おまえにいたいのは、それだけだ。おまえのあには、たぶんえらおとこなのだから、おまえもそのほこりをっていろ。」
 花嫁はなよめは、夢見心地ゆめみごこち首肯うなずいた。メロスは、それから花婿はなむこかたをたたいて、
仕度したくいのはおたがいさまさ。わたしいえにも、たからといっては、いもうとひつじだけだ。ほかには、なにい。全部ぜんぶあげよう。もうひとつ、メロスのおとうとになったことをほこってくれ。」
 花婿はなむこして、てれていた。メロスはわらって村人むらびとたちにも会釈えしゃくして、宴席えんせきからり、羊小屋ひつじごやにもぐりんで、んだようにふかねむった。
 めたのはあく薄明はくめいころである。メロスはき、南無三なむさん寝過ねすごしたか、いや、まだまだ大丈夫だいじょうぶ、これからすぐに出発しゅっぱつすれば、約束やくそく刻限こくげんまでには十分じゅうぶんう。きょうは是非ぜひとも、あのおうに、ひと信実しんじつそんするところをせてやろう。そうしてわらってはりつけだいあがってやる。メロスは、悠々ゆうゆう身仕度みじたくをはじめた。あめも、いくぶん小降こぶりになっている様子ようすである。身仕度みじたく出来できた。さて、メロスは、ぶるんと両腕りょううでおおきくって、雨中うちゅうごとはした。
 わたしは、今宵こよいころされる。ころされるためはしるのだ。身代みがわりのともすくためはしるのだ。おう奸佞かんねい邪智じゃちやぶためはしるのだ。はしらなければならぬ。そうして、わたしころされる。わかときから名誉めいよまもれ。さらば、ふるさと。わかいメロスは、つらかった。幾度いくどか、ちどまりそうになった。えい、えいと大声おおごえげて自身じしんしかりながらはしった。むらて、横切よこぎり、もりをくぐりけ、隣村となりむらいたころには、あめみ、たかのぼって、そろそろあつくなってた。メロスはひたいあせをこぶしではらい、ここまでれば大丈夫だいじょうぶ、もはや故郷こきょうへの未練みれんい。いもうとたちは、きっと夫婦ふうふになるだろう。わたしには、いま、なんのがかりもはずだ。まっすぐに王城おうじょうけば、それでよいのだ。そんなにいそ必要ひつようい。ゆっくりあるこう、とちまえの呑気のんきさをかえし、きな小歌こうたをいいこえうたした。ぶらぶらあるいて二里にり三里さんりき、そろそろぜん里程りていなかばに到達とうたつしたころっていた災難さいなん、メロスのあしは、はたと、とまった。よ、前方ぜんぽうかわを。きのうの豪雨ごううやま水源地すいげんち氾濫はんらんし、濁流だくりゅう滔々とうとう下流かりゅうあつまり、猛勢もうせい一挙いっきょはし破壊はかいし、どうどうとひびきをあげる激流げきりゅうが、木葉こっぱ微塵みじん橋桁はしげたばしていた。かれ茫然ぼうぜんと、ちすくんだ。あちこちとながめまわし、また、こえかぎりにびたててみたが、繋舟けいしゅうのこらずなみさらわれてかげなく、渡守わたりもりの姿すがたえない。ながれはいよいよ、ふくれあがり、うみのようになっている。メロスは川岸かわぎしにうずくまり、男泣おとこなきにきながらゼウスにげて哀願あいがんした。「ああ、しずめたまえ、くるながれを! とき刻々こくこくぎてきます。太陽たいようすで真昼時まひるどきです。あれがしずんでしまわぬうちに、王城おうじょうくことが出来できなかったら、あの友達ともだちが、わたしのためにぬのです。」
 濁流だくりゅうは、メロスのさけびをせせらわらごとく、ますますはげしくおどくるう。なみなみみ、き、あおて、そうしてときは、刻一刻こくいっこくえてく。いまはメロスも覚悟かくごした。およるよりほかい。ああ、神々かみがみ照覧しょうらんあれ! 濁流だくりゅうにもけぬあいまこと偉大いだいちからを、いまこそ発揮はっきしてせる。メロスは、ざんぶとながれにみ、百匹ひゃっぴき大蛇だいじゃのようにのたくるなみ相手あいてに、必死ひっし闘争とうそう開始かいしした。満身まんしんちからうでにこめて、渦巻うずまきずるながれを、なんのこれしきときわけきわけ、めくらめっぽう獅子奮迅ししふんじんひと姿すがたには、かみあわれとおもったか、ついに憐愍れんびんれてくれた。ながされつつも、見事みごと対岸たいがん樹木じゅもくみきに、すがりつくこと出来できたのである。ありがたい。メロスはうまのようにおおきな胴震どうぶるいをひとつして、すぐにまたきをいそいだ。一刻いっこくといえども、むだには出来できない。すで西にしかたむきかけている。ぜいぜいあら呼吸こきゅうをしながらとうげをのぼり、のぼりって、ほっとしたとき突然とつぜんまえ一隊いったい山賊さんぞくおどた。
て。」
なにをするのだ。わたししずまぬうちに王城おうじょうかなければならぬ。はなせ。」
「どっこいはなさぬ。ちもの全部ぜんぶいてけ。」
わたしにはいのちのほかにはなにい。その、たったひとつのいのちも、これからおうにくれてやるのだ。」
「その、いのちがしいのだ。」
「さては、おう命令めいれいで、ここでわたしせしていたのだな。」
 山賊さんぞくたちは、ものもわず一斉いっせいこんぼうげた。メロスはひょいと、からだをげ、飛鳥あすかごと身近みぢかの一人ひとりおそいかかり、その棍棒こんぼううばって、
どくだが正義せいぎのためだ!」と猛然もうぜん一撃いちげき、たちまち、三人さんにんなぐたおし、のこもののひるむすきに、さっさとはしってとうげくだった。一気いっきとうげりたが、流石さすが疲労ひろうし、おりから午後ごご灼熱しゃくねつ太陽たいようがまともに、かっとってて、メロスは幾度いくどとなく眩暈めまいかんじ、これではならぬ、となおしては、よろよろ三歩さんぽあるいて、ついに、がくりとひざった。あがこと出来できぬのだ。てんあおいで、くやしきにした。ああ、あ、濁流だくりゅうおより、山賊さんぞく三人さんにんたお韋駄天いだてん、ここまで突破とっぱしてたメロスよ。しん勇者ゆうしゃ、メロスよ。いま、ここで、つかってうごけなくなるとは情無なさけない。あいするともは、おまえをしんじたばかりに、やがてころされなければならぬ。おまえは、稀代きたい不信ふしん人間にんげん、まさしくおうおもつぼだぞ、と自分じぶんしかってみるのだが、全身ぜんしんえて、もはや芋虫いもむしほどにも前進ぜんしんかなわぬ。路傍ろぼう草原そうげんにごろりところがった。身体しんたい疲労ひろうすれば、精神せいしんともにやられる。もう、どうでもいいという、勇者ゆうしゃ不似合ふにあいな不貞腐ふてくされた根性こんじょうが、こころすみった。わたしは、これほど努力どりょくしたのだ。約束やくそくやぶこころは、みじんもかった。かみ照覧しょうらんわたし精一せいいっぱいにつとめてたのだ。うごけなくなるまではしってたのだ。わたし不信ふしんではい。ああ、できることならわたしむねって、真紅しんく心臓しんぞうをおけたい。あい信実しんじつ血液けつえきだけでうごいているこの心臓しんぞうせてやりたい。けれどもわたしは、この大事だいじときに、せいこんきたのだ。わたしは、よくよく不幸ふこうおとこだ。わたしは、きっとわらわれる。わたし一家いっかわらわれる。わたしともあざむいた。中途ちゅうとたおれるのは、はじめからなにもしないのとおなことだ。ああ、もう、どうでもいい。これが、わたしさだまった運命うんめいなのかもれない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。きみは、いつでもわたししんじた。わたしきみを、あざむかなかった。わたしたちは、本当ほんとうともともであったのだ。いちどだって、くら疑惑ぎわくくもを、おたがむね宿やどしたことはかった。いまだって、きみわたし無心むしんっているだろう。ああ、っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくもわたししんじてくれた。それをおもえば、たまらない。ともともあいだ信実しんじつは、このいちばんほこるべきたからなのだからな。セリヌンティウス、わたしはしったのだ。きみあざむくつもりは、みじんもかった。しんじてくれ! わたしいそぎにいそいでここまでたのだ。濁流だくりゅう突破とっぱした。山賊さんぞくかこみからも、するりとけて一気いっきとうげりてたのだ。わたしだから、出来できたのだよ。ああ、このうえわたしのぞたまうな。ほうっていてくれ。どうでも、いいのだ。わたしけたのだ。だらしがい。わらってくれ。おうわたしに、ちょっとおくれてい、と耳打みみうちした。おくれたら、身代みがわりをころして、わたしたすけてくれると約束やくそくした。わたしおう卑劣ひれつにくんだ。けれども、いまになってみると、わたしおううままになっている。わたしは、おくれてくだろう。おうは、ひとり合点がてんしてわたしわらい、そうしてことわたし放免ほうめんするだろう。そうなったら、わたしは、ぬよりつらい。わたしは、永遠えいえん裏切者うらぎりものだ。地上ちじょうもっとも、不名誉ふめいよ人種じんしゅだ。セリヌンティウスよ、わたしぬぞ。きみ一緒いっしょなせてくれ。きみだけはわたししんじてくれるにちがいい。いや、それもわたしの、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳あくとくしゃとしてびてやろうか。むらにはわたしいえる。ひつじる。妹夫婦いもうとふうふは、まさかわたしむらからすようなことはしないだろう。正義せいぎだの、信実しんじつだの、あいだの、かんがえてみれば、くだらない。ひところして自分じぶんきる。それが人間にんげん世界せかい定法じょうほうではなかったか。ああ、なにもかも、ばかばかしい。わたしは、みにく裏切うらぎものだ。どうとも、勝手かってにするがよい。やんぬるかな。――四肢ししして、うとうと、まどろんでしまった。
 ふとみみに、潺々せんせんみずながれるおときこえた。そっとあたまをもたげ、いきんでみみをすました。すぐあしもとで、みずながれているらしい。よろよろあがって、ると、いわ裂目さけめから滾々こんこんと、なにちいさくささやきながら清水しみずているのである。そのいずみまれるようにメロスはをかがめた。みず両手りょうてすくって、ひとくちんだ。ほうとなが溜息ためいきて、ゆめからめたようながした。あるける。こう。肉体にくたい疲労ひろう恢復かいふくともに、わずかながら希望きぼううまれた。義務ぎむ遂行すいこう希望きぼうである。わがころして、名誉めいよまも希望きぼうである。斜陽しゃようあかひかりを、樹々きぎとうじ、えだえるばかりにかがやいている。日没にちぼつまでには、まだがある。わたしを、っているひとがあるのだ。すこしもうたがわず、しずかに期待きたいしてくれているひとがあるのだ。わたしは、しんじられている。わたしいのちなぞは、問題もんだいではない。んでおび、などとのいいことってられぬ。わたしは、信頼しんらいむくいなければならぬ。いまはただその一事いちじだ。はしれ! メロス。
 わたし信頼しんらいされている。わたし信頼しんらいされている。先刻せんこくの、あの悪魔あくまささやきは、あれはゆめだ。わるゆめだ。わすれてしまえ。五臓ごぞうつかれているときは、ふいとあんなわるゆめるものだ。メロス、おまえのはじではない。やはり、おまえはしん勇者ゆうしゃだ。ふたたってはしれるようになったではないか。ありがたい! わたしは、正義せいぎとしてこと出来できるぞ。ああ、しずむ。ずんずんしずむ。ってくれ、ゼウスよ。わたしうまれたときから正直しょうじきおとこであった。正直しょうじきおとこのままにしてなせてください。
 みちひとしのけ、ねとばし、メロスはくろかぜのようにはしった。野原のはら酒宴しゅえんの、その宴席えんせきのまっただなかけ、酒宴しゅえんひとたちを仰天ぎょうてんさせ、いぬとばし、小川おがわえ、すこしずつしずんでゆく太陽たいようの、十倍じゅうばいはやはしった。一団いちだん旅人たびびとっとすれちがった瞬間しゅんかん不吉ふきつ会話かいわ小耳こみみにはさんだ。「いまごろは、あのおとこも、はりつけにかかっているよ。」ああ、そのおとこ、そのおとこのためにわたしは、いまこんなにはしっているのだ。そのおとこなせてはならない。いそげ、メロス。おくれてはならぬ。あいまことちからを、いまこそらせてやるがよい。風態ふうていなんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんどぜん裸体らたいであった。呼吸こきゅう出来できず、二度にど三度さんどくちからた。える。はるかむこうにちいさく、シラクスのとうろうえる。とうろうは、夕陽ゆうひけてきらきらひかっている。
「ああ、メロスさま。」うめくようなこえが、かぜともきこえた。
だれだ。」メロスははしりながらたずねた。
「フィロストラトスでございます。貴方あなたのお友達ともだちセリヌンティウスさま弟子でしでございます。」そのわか石工いしくも、メロスのあとについてはしりながらさけんだ。「もう、駄目だめでございます。むだでございます。はしるのは、やめてください。もう、あのかたをおたすけになることは出来できません。」
「いや、まだしずまぬ。」
「ちょうどいま、あのかた死刑しけいになるところです。ああ、あなたはおそかった。おうらみもうします。ほんのすこし、もうちょっとでも、はやかったなら!」
「いや、まだしずまぬ。」メロスはむねけるおもいで、あかおおきい夕陽ゆうひばかりをつめていた。はしるよりほかい。
「やめてください。はしるのは、やめてください。いまはご自分じぶんのおいのち大事だいじです。あのかたは、あなたをしんじてりました。刑場けいじょうされても、平気へいきでいました。王様おうさまが、さんざんあのかたをからかっても、メロスはます、とだけこたえ、つよ信念しんねんちつづけている様子ようすでございました。」
「それだから、はしるのだ。しんじられているからはしるのだ。う、わぬは問題もんだいでないのだ。ひといのち問題もんだいでないのだ。わたしは、なんだか、もっとおそろしくおおきいもののためはしっているのだ。ついてい! フィロストラトス。」
「ああ、あなたはくるったか。それでは、うんとはしるがいい。ひょっとしたら、わぬものでもない。はしるがいい。」
 うにやおよぶ。まだしずまぬ。最後さいご死力しりょくつくして、メロスははしった。メロスのあたまは、からっぽだ。何一なにひとかんがえていない。ただ、わけのわからぬおおきなちからにひきずられてはしった。は、ゆらゆら地平線ちへいせんぼっし、まさに最後さいご一片いっぺん残光ざんこうも、えようとしたとき、メロスは疾風しっぷうごと刑場けいじょう突入とつにゅうした。った。
て。そのひところしてはならぬ。メロスがかえってた。約束やくそくのとおり、いま、かえってた。」と大声おおごえ刑場けいじょう群衆ぐんしゅうにむかってさけんだつもりであったが、のどがつぶれてしわがれたこえかすかにたばかり、群衆ぐんしゅうは、ひとりとしてかれ到着とうちゃくがつかない。すでにはりつけはしら高々たかだかてられ、なわたれたセリヌンティウスは、徐々じょじょげられてゆく。メロスはそれを目撃もくげきして最後さいごゆう先刻せんこく濁流だくりゅうおよいだように群衆ぐんしゅうきわけ、きわけ、
わたしだ、刑吏けいり! ころされるのは、わたしだ。メロスだ。かれ人質ひとじちにしたわたしは、ここにいる!」と、かすれたこえ精一せいいっぱいにさけびながら、ついにはりつけだいのぼり、げられてゆくとも両足りょうあしに、かじりついた。群衆ぐんしゅうは、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々くちぐちにわめいた。セリヌンティウスのなわは、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス。」メロスはなみだうかべてった。「わたしなぐれ。ちからいっぱいにほおなぐれ。わたしは、途中とちゅう一度いちどわるゆめた。きみわたしなぐってくれなかったら、わたしきみ抱擁ほうようする資格しかくさえいのだ。なぐれ。」
 セリヌンティウスは、すべてをさっした様子ようす首肯うなずき、刑場けいじょういっぱいにひびくほどおとたかくメロスのみぎほおなぐった。なぐってからやさしく微笑ほほえみ、
「メロス、わたしなぐれ。おなじくらいおとたかわたしほおなぐれ。わたしはこの三日みっかあいだ、たった一度いちどだけ、ちらときみうたがった。うまれて、はじめてきみうたがった。きみわたしなぐってくれなければ、わたしきみ抱擁ほうようできない。」
 メロスはうでうなりをつけてセリヌンティウスのほおなぐった。
「ありがとう、ともよ。」二人ふたり同時どうじい、ひしとい、それからうれきにおいおいこえはなっていた。
 群衆ぐんしゅうなかからも、歔欷きょきこえきこえた。暴君ぼうくんディオニスは、群衆ぐんしゅう背後はいごから二人ふたりさまを、まじまじとつめていたが、やがてしずかに二人ふたりちかづき、かおをあからめて、こうった。
「おまえらののぞみはかなったぞ。おまえらは、わしのこころったのだ。信実しんじつとは、けっして空虚くうきょ妄想もうそうではなかった。どうか、わしをも仲間なかまれてくれまいか。どうか、わしのねがいをれて、おまえらの仲間なかま一人ひとりにしてほしい。」
 どっと群衆ぐんしゅうあいだに、歓声かんせいおこった。
万歳ばんざい王様おうさま万歳ばんざい。」
 ひとりの少女しょうじょが、のマントをメロスにささげた。メロスは、まごついた。ともは、をきかせておしえてやった。
「メロス、きみは、まっぱだかじゃないか。はやくそのマントをるがいい。この可愛かわいむすめさんは、メロスの裸体らたいを、みなられるのが、たまらなく口惜くやしいのだ。」
 勇者ゆうしゃは、ひどく赤面せきめんした。

古伝説いにしえでんせつと、シルレルのから。)

出発するまでの少しの心残りや辿り着くまでの一瞬の挫折など、読み解いていくと細かい心理描写があって、短い話の中のメロスの心情の大きな変化が見られます。
今回のように、昔教材で読んでいた作品に改めて触れてみると、また違った面白さが発見できそうです。
次回の短編紹介もお楽しみに。

引用元:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/index.html)
底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年10月25日初版発行
1998(平成10)年6月15日第2刷
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月
入力:金川一之
校正:高橋美奈子
2000年12月4日公開
2011年1月17日修正

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