母への深い愛情から始まった。母の日の原点のおはなし。
5月9日(日)は「母の日」ですね。
私は毎年母にささやかながらプレゼントを渡しています。
母親への感謝の気持ちを伝える母の日ですが、どのように始まったか知っていますか。
今回は母の日の由来についてご紹介します。
アメリカで繰り広げられた母の活動と娘の敬愛
『母の日』の起源はアメリカのある母親とその娘の物語が大きくかかわっています。
アメリカ19世紀の後半に社会活動に尽力した「アン・マリー・リーヴス・ジャーヴィス(以下、アン)」という女性がいます。
当時は医療水準がとても低く非衛生な環境であったため、腸チフスやジフテリアなどの感染症が人々を脅かしていました。
アン自身も11人(13人という説がある)の子供を産んでいますが、幼少期の病気で7人が亡くなっていました。
そこでアンは子供たちがこれ以上病気で亡くなることがないように活動を行うことにしました。
1850年頃に衛生状態の改善、母親の病気治療を行い母子感染による乳児死亡率の低減を目的とし「母の日ワーククラブ(Mother’s Day Work Club)」を組織しました。
病気で苦しむ母親たちのために募金活動を行って薬を提供したり、衛生と健康に関する教育を行うなどの活動を行っていました。
クラブの活動が大きく注目されるようになったのは、1861~1865年に起こった「アメリカ南北戦争」のときです。
この戦争でアンは中立の立場になることを宣言し、南北双方の兵士に衣食を供給したり、病気にかかったり負傷した兵士の看護を行いました。
南北戦争の終了後も戦争のわだかまりを解くために「母の友情の日(Mother’s Friendship Day)」というイベントを催し、双方の和解を導く平和活動を行いました。
この社会活動はアメリカで多くの人々に広く注目されました。
その後、アンは日曜学校で子供たちに授業をしたり、教会の聴衆に講義を行うなどの活動を続けます。
そしてアンの人生は1905年5月8日に幕を下ろします。
そんな母親を心から敬愛していたのが、娘の「アンナ・マリー・ジャーヴィス(以下、アンナ)」です。
アンを深く愛していたアンナは母を敬う気持ちを世に残すために、アンの死後に「全ての母をたたえる」記念礼拝を行うことを始めました。
この記念礼拝が今日まで続く「母の日」の前身です。
初めての「母の日」は1908年5月10日、アンが日曜学校を教えていた教会で実施されました。
その際アンナはアンが生前好きだった「白いカーネーション」を記念礼拝の出席者全員に贈ったそうです。
この「母を敬う休日」に人々は賛同し、その習慣は年々広まっていきました。
アンナも母の日が祝日になるように働きかけ、1910年にウエストバージニア州で祝日として母の日が認められました。
その後1914年にウッドロウ・ウィルソン大統領により「5月の第2日曜日」を母の日として正式に定められました。
日本における母の日
日本に母の日が伝わってきたのは、母の日が誕生して少し経った1913年(大正2年)。
青山女学院で教師を務めていた「マイラ・E・ドレーパー」によって日本で初めて母の日の行事が開催されました。
1931年(昭和6年)には大日本連合婦人会が結成された際、当時の皇后である「香淳皇后(こうじゅんこうごう)」の誕生日である3月6日を「母の日」として定めました。
しかし当時は既に皇后の誕生日は「地久節(ちきゅうせつ)」といわれており、「母の日」としてはあまり普及しなかったようです。
その後1936年(昭和11年)5月に菓子製造業者で有名な「森永製菓株式会社」が「第1回 森永・母の日大会」と称して、母の日のイベントを盛大に行いました。
これにより日本国内で母の日が広く知られるようになり、一般的になりました。
その後における戦争により母の日を祝う行事は一時的に自粛され、戦争終結後の1949年(昭和24年)頃にアメリカに倣って「5月の第2日曜日」を「母の日」として正式に制定されました。
今では「母親にプレゼントを贈る日」と定着している母の日ですが、歴史を紐解くとただプレゼントを贈れば良いのではありません。
人々に隔たりなく平和のために活動した母親を深く尊敬し、愛した娘の想いが込められた日です。
ここまで母親のために活動するのは、なかなか真似することは難しいかもしれません。
それでも母親の存在を敬って感謝し、その気持ちを伝える大切な日として「母の日」を大事にしたいものです。
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