物語が現実に言及してくる?フィクションを意図的に書き出すメタフィクション。
小説や漫画やアニメなど、世の中には数えきれないほどの作品が存在します。
その作品を表現する手法も様々で、あらゆる方面から読者や視聴者を楽しませてくれます。
さて、皆さんは作中に突然作者のキャラクターが登場する作品を見たことはありませんか。
あるいは、作品の登場人物が「これはフィクションなんだよ。」と唐突に発言するようなこともあります。
このような場面に出くわすと、不思議と親近感を持つことがあります。
今回は、そんな技法「メタフィクション」についてご紹介していきましょう。
より上位の虚構の世界へ
「これを読んでいる皆さんは、犯人が分かりましたか?」
推理小説を読んでいると、突然探偵がこちらに語り掛けてくる場面。
まさかのシチュエーションにビックリしますよね。
作品の中の世界は、見ている私たちにとっては「現実の世界」とは異なるものです。
そして作品の中の世界は、現実から見て作り話であり「フィクションの世界」にあたります。
通常、作品の登場人物は自分が「作り話の登場人物」であることを認識していません。
それは作品の中に「作品の作者が存在すること」や「作品を見ている人物がいること」を明記していないからです。
また、作品を見ている私たちは「作品に関わること」も出来ません。
それは作品の中に「私たちが関わっている描写」が描かれていないからです。
このように本来、現実の世界とフィクションの世界はそれぞれ独立している世界であり、互いに干渉することはできません。
しかし、フィクションの世界は現実の世界が作り出した「作り話」です。
言い換えれば「フィクションの世界から現実の世界に干渉しているように描写」すれば、フィクションの世界が「現実の世界を巻き込む」ことが可能なのです。
例えば、冒頭の様にフィクションの世界の登場人物がこちらに語り掛けてきたとしましょう。
誰かが誰かに語り掛けるには、必ず相手が必要であり、尚且つ相手を認識している必要があります。
またフィクションの世界には「私たちを表す実体」の描写もありません。
つまり「こちらに語り掛けてくる」ということは、その人物が「フィクションの世界を見ている見えない私たちを認識している」ということです。
「見えない誰かが自分を俯瞰している」ということは現実的にはあり得ませんよね。
そうすると、途端にこの表現を通して作品が「フィクション」であることが明確になります。
そもそも私たちは作品を見ている時に、終始「作品はフィクションである」と意識しながら見ているでしょうか。
大抵の人は、見ているその「作品の世界」に入り込んでいると思います。
作品の世界に入り込むことで、出来事が目の前で起こっているように感じたり、自分が登場人物の一人になっていたりするような感覚を味わえます。
これは「現実の世界から意識を切り離している状態」であり、「現実の世界とフィクションの世界をしっかり線引きしている」からこそ体感できるものです。
しかし、作品の世界に浸っている時にフィクションであると明確にすると、急に現実の世界を認識させられます。
フィクションの世界に集中しているのに、現実の世界の意識が入り込んでくるのです。
そうするとフィクションの世界と現実の世界の切り離しが上手くできなくなり、かえって世界の境界が曖昧になってしまいます。
このように「フィクションを明確にすることで、フィクションの世界と現実の世界を交じり合わせる手法」を『メタフィクション』といいます。
メタフィクションの表現方法
さて、メタフィクションを表現するには、いくつかの方法があります。
作品の中で作品が展開する『作中作(さくちゅうさく)』、あるいは劇の中で劇が展開する『劇中劇(げきちゅうげき)』は古くから使われている方法です。
例えば、日本で『アラビアンナイト』の名称で有名なイスラムの説話集『千夜一夜物語(せんやいちやものがたり)』は、シャハラザードという女性がシャフリヤール王に殺されないようにするために毎晩物語を語る、という作品です。
「シャハラザードがシャフリヤール王に物語を語りかける世界」から始まり、そこから「シャハラザードが語っている物語の中の世界」にシフトします。
つまり私たちは「フィクションの世界で語られるフィクションの世界」を読むことになり、その境界線が曖昧になっているのです。
更にその中には「物語の中の人物が命乞いに物語を語る」という物語もあり、何重にも作中作が行われている部分もあります。
「風車を巨人だと言い張って突撃するエピソード」が有名なスペインの小説『ドン・キホーテ』も作中作のメタフィクションが使われています。
作品は前編と後編に分かれており、前編は主人公のドン・キホーテが旅立った先で起こるエピソードや本筋に関係ない短編のお話が書かれています。
そして後編の冒頭では「前編で起こっていたことが伝記として書かれて出版」されており「ドン・キホーテ達がその伝記の内容について言及する」という場面が描かれています。
「これは作品でフィクションである」と見ているこちらに気付かせるのもメタフィクションの代表的な方法です。
教科書に掲載されている芥川龍之介の『羅生門(らしょうもん)』も会話部分ではない地の文で「作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。」と唐突に「これは小説であり、作者が書いたこと」を明確にしています。
もっと露骨な表現だと「登場人物のセリフ」を使った『メタ発言(めたはつげん)』があります。
前述した「読者に向かって語り掛ける」以外にも「これはゲームだから」、「こうなったのは全部作者のせいだ!」、「来週からは私が主人公だね」など「その作品の外部でしか知りえない事情や設定を発言させる」と途端にフィクションの世界が浮き彫りになりますね。
また、本来作品の世界には存在しないはずの「作品の作者が登場して発言をする」のもメタ発言の手法です。
漫画の神様と呼ばれる「手塚治虫」や、Dr.スランプやドラゴンボールの作者「鳥山明」はこの手法を使うことで有名です。
ある時は漫画のコマの枠外に、またある時はモブキャラクターとして描かれ、作中の解説を入れたり矛盾を弁解したりして、作品にちょっとしたスパイスを効かせたりします。
メタフィクションはユニークな技法ではありますが、使いどころが肝心です。
読者や視聴者は、あくまでも作品のフィクションの世界を楽しんでいます。
メタフィクションを不用意に用いると、現実の世界に意識が戻されてしまい、興が醒めてしまうのです。
しかし、フィクションと現実を曖昧にすることで、よりリアリティのあるフィクションの世界に入り込めるのも事実です。
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