文学作品に身を委ねて~坂口安吾『桜の森の満開の下』~

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皆さんは最近、本を読んでいますか。
多種多様な娯楽に溢れている今、小説などの本を読むことが少なくなっているとのこと。
本は、なんといっても想像力を鍛えるのに良いと同時に、身に付ければどんどん本も面白くなっていくのもいいところです。
そんなきっかけの一つとして、ここでは短編小説を紹介しています。
そろそろ回数を重ねてきて、慣れてきた方もいるかと思いますので、1時間ほどで読める小説に挑戦してみましょう。
題目は、坂口安吾の「桜の森の満開の下」です。

 

戦後に活躍した無頼派の一人

戦後から発展していった現代文学の中で、既成文学のスタイルに反発した作風を持った『無頼派(ぶらいは)』と呼ばれる作家たち。
この枠組みを作り上げた一人が『坂口安吾(さかぐちあんご)』です。
作品中の言い回しや文体が独特で、人間や社会の本質を捉えることを得意とした作家です。
純文学だけでなく、歴史小説や推理小説なども書き、さらには幅広いジャンルの随筆や観戦記、フランス文学の翻訳出版など、多岐にわたって活動した人物です。
ただし、途中で書くのを放棄した未完成や未発表の作品も多く、気まぐれな面もあったそうです。
人気作家まで上り詰めましたが、48歳の時に脳出血で亡くなっています。

坂口は、戦前に『風博士(かぜはかせ)』や『黒谷村(くろたにむら)』を発表したことをきっかけに、作家として注目されるようになりました。
戦後になると、敗戦直後の指標を示して世間に大きく影響を与えた『堕落論(だらくろん)』や『白痴(はくち)』が特に有名です。
他にも長辺推理小説の『不連続殺人事件(ふれんぞくさつじんじけん)』や黒田官兵衛を主人公とした歴史小説『二流の人(にりゅうのひと)』などがあります。

今回ご紹介する『桜の森の満開の下(さくらのもりのまんかいのした)』は、虚無と孤独を描いた怪奇物語です。
主人公の山賊と妖しい女との生活の中に、人間の欲望や残酷さが際立っています。
特に都で行われる女の狂気的な行動は、読んでいるだけで悪寒を感じます。
しかし、物語の最後には山賊が初めてしっかりと実感する冷たい孤独感が伝わってくる不思議な物語です。
その幻想的な世界観を味わってみてください。

 

マンハッタナーズ可動式

 


桜の森の満開の下
坂口安吾

 桜さくらの花はなが咲さくと人々ひとびとは酒さけをぶらさげたり団子だんごをたべて花はなの下したを歩あるいて絶景ぜっけいだの春はるランマンだのと浮うかれて陽気ようきになりますが、これは嘘うそです。なぜ嘘うそかと申もうしますと、桜さくらの花はなの下したへ人ひとがより集つどって酔よっ払ぱらってゲロを吐はいて喧嘩けんかして、これは江戸時代えどじだいからの話はなしで、大昔おおむかしは桜さくらの花はなの下したは怖おそろしいと思おもっても、絶景ぜっけいだなどとは誰だれも思おもいませんでした。近頃ちかごろは桜さくらの花はなの下したといえば人間にんげんがより集つどって酒さけをのんで喧嘩けんかしていますから陽気ようきでにぎやかだと思おもいこんでいますが、桜さくらの花はなの下したから人間にんげんを取とり去さると怖おそろろしい景色げしきになりますので、能のうにも、さる母親ははおやが愛児あいじを人ひとさらいにさらわれて子供こどもを探さがして発狂はっきょうして桜さくらの花はなの満開まんかいの林はやしの下したへ来きかかり見渡みわたす花はなびらの陰かげに子供こどもの幻まぼろしを描えがいて狂くるい死じにして花はなびらに埋うまってしまう(このところ小生しょうせいの蛇足だそく)という話はなしもあり、桜さくらの林はやしの花はなの下したに人ひとの姿すがたがなければ怖おそろしいばかりです。
 昔むかし、鈴鹿峠すずかとうげにも旅人たびびとが桜さくらの森もりの花はなの下したを通とおらなければならないような道みちになっていました。花はなの咲さかない頃ころはよろしいのですが、花はなの季節きせつになると、旅人たびびとはみんな森もりの花はなの下したで気きが変へんになりました。できるだけ早はやく花はなの下したから逃にげようと思おもって、青あおい木きや枯かれ木きのある方ほうへ一目散いちもくさんに走はしりだしたものです。一人ひとりだとまだよいので、なぜかというと、花はなの下したを一目散いちもくさんに逃にげて、あたりまえの木きの下したへくるとホッとしてヤレヤレと思おもって、すむからですが、二人ふたり連づれは都合つごうが悪わるい。なぜなら人間にんげんの足あしの早はやさは各人各様かくじんかくようで、一人ひとりが遅おくれますから、オイ待まってくれ、後あとから必死ひっしに叫さけんでも、みんな気違きちがいで、友達ともだちをすてて走はしります。それで鈴鹿峠すずかとうげの桜さくらの森もりの花はなの下したを通過つうかしたとたんに今迄いままで仲なかのよかった旅人たびびとが仲なかが悪わるくなり、相手あいての友情ゆうじょうを信用しんようしなくなります。そんなことから旅人たびびとも自然しぜんに桜さくらの森もりの下したを通とおらないで、わざわざ遠とおまわりの別べつの山やま道みちを歩あるくようになり、やがて桜さくらの森もりは街道かいどうを外はずれて人ひとの子こ一人ひとり通とおらない山やまの静寂せいじゃくへとり残のこされてしまいました。
 そうなって何年なんねんかあとに、この山やまに一人ひとりの山賊さんぞくが住すみはじめましたが、この山賊さんぞくはずいぶんむごたらしい男おとこで、街道かいどうへでて情容赦なさけようしゃなく着物きものをはぎ人ひとの命いのちも断たちましたが、こんな男おとこでも桜さくらの森もりの花はなの下したへくるとやっぱり怖おそろしくなって気きが変へんになりました。そこで山賊さんぞくはそれ以来いらい花はながきらいで、花はなというものは怖おそろしいものだな、なんだか厭いやなものだ、そういう風ふうに腹はらの中なかでは呟つぶやいていました。花はなの下したでは風かぜがないのにゴウゴウ風かぜが鳴なっているような気きがしました。そのくせ風かぜがちっともなく、一ひとつも物音ものおとがありません。自分じぶんの姿すがたと跫音あしおとばかりで、それがひっそり冷つめめたいそして動うごかない風かぜの中なかにつつまれていました。花はなびらがぽそぽそ散ちるように魂たましいが散ちっていのちがだんだん衰おとろえて行いくように思おもわれます。それで目めをつぶって何なにか叫さけんで逃にげたくなりますが、目めをつぶると桜さくらの木きにぶつかるので目めをつぶるわけにも行いきませんから、一そう気違きちがいになるのでした。
 けれども山賊さんぞくは落付おちついた男おとこで、後悔こうかいということを知しらない男おとこですから、これはおかしいと考かんがえたのです。ひとつ、来年らいねん、考かんがえてやろう。そう思おもいました。今年ことしは考かんがえる気きがしなかったのです。そして、来年らいねん、花はながさいたら、そのときじっくり考かんがえようと思おもいました。毎年まいとしそう考かんがえて、もう十何年じゅうなんねんもたち、今年ことしも亦また、来年らいねんになったら考かんがえてやろうと思おもって、又また、年としが暮くれてしまいました。
 そう考かんがえているうちに、始はじめは一人ひとりだった女房にょうぼうがもう七人しちにんにもなり、八人目はちにんめの女房にょうぼうを又また街道かいどうから女おんなの亭主ていしゅの着物きものと一緒いっしょにさらってきました。女おんなの亭主ていしゅは殺ころしてきました。
 山賊さんぞくは女おんなの亭主ていしゅを殺ころす時ときから、どうも変へんだと思おもっていました。いつもと勝手かってが違ちがうのです。どこということは分わからぬけれども、変へんてこで、けれども彼かれの心こころは物ものにこだわることに慣なれませんので、そのときも格別かくべつ深ふかく心こころにとめませんでした。
 山賊さんぞくは始はじめは男おとこを殺ころす気きはなかったので、身みぐるみ脱ぬがせて、いつもするようにとっとと失うせろと蹴けとばしてやるつもりでしたが、女おんなが美うつくしすぎたので、ふと、男おとこを斬きりすてていました。彼かれ自身じしんに思おもいがけない出来事できごとであったばかりでなく、女おんなにとっても思おもいがけない出来事できごとだったしるしに、山賊さんぞくがふりむくと女おんなは腰こしをぬかして彼かれの顔かおをぼんやり見みつめました。今日きょうからお前まえは俺おれの女房にょうぼうだと言いうと、女おんなはうなずきました。手てをとって女おんなを引ひき起おこすと、女おんなは歩あるけないからオブっておくれと言いいます。山賊さんぞくは承知しょうち承知しょうちと女おんなを軽々かるがると背負せおって歩あるきましたが、険けわしい登のぼり坂ざかへきて、ここは危あぶないから降おりて歩あるいて貰もらおうと言いっても、女おんなはしがみついて厭々いやいや、厭いやヨ、と言いって降おりません。
「お前まえのような山男やまおとこが苦くるしがるほどの坂道さかみちをどうして私わたしが歩あるけるものか、考かんがえてごらんよ」
「そうか、そうか、よしよし」と男おとこは疲つかれて苦くるしくても好こう機嫌きげんでした。「でも、一度いちどだけ降おりておくれ。私わたしは強つよいのだから、苦くるしくて、一休ひとやすみしたいというわけじゃないぜ。眼めの玉たまが頭あたまの後側うしろがわにあるというわけのものじゃないから、さっきからお前まえさんをオブっていてもなんとなくもどかしくて仕方しかたがないのだよ。一度いちどだけ下したへ降おりてかわいい顔かおを拝おがましてもらいたいものだ」
「厭いやよ、厭いやよ」と、又また、女おんなはやけに首くびっ玉たまにしがみつきました。「私わたしはこんな淋さびしいところに一ひとっときもジッとしていられないヨ。お前まえのうちのあるところまで一ひとっときも休やすまず急いそいでおくれ。さもないと、私わたしはお前まえの女房にょうぼうになってやらないよ。私わたしにこんな淋さびしい思おもいをさせるなら、私わたしは舌したを噛かんで死しんでしまうから」
「よしよし。分わかった。お前まえのたのみはなんでもきいてやろう」
 山賊さんぞくはこの美うつくしい女房にょうぼうを相手あいてに未来みらいのたのしみを考かんがえて、とけるような幸福こうふくを感かんじました。彼かれは威張いばりかえって肩かたを張はって、前まえの山やま、後うしろの山やま、右みぎの山やま、左ひだりの山やま、ぐるりと一廻転いっかいてんして女おんなに見みせて、
「これだけの山やまという山やまがみんな俺おれのものなんだぜ」
 と言いいましたが、女おんなはそんなことにはてんで取とりあいません。彼かれは意外いがいに又また残念ざんねんで、
「いいかい。お前まえの目めに見みえる山やまという山やま、木きという木き、谷たにという谷たに、その谷たにからわく雲くもまで、みんな俺おれのものなんだぜ」
「早はやく歩あるいておくれ。私わたしはこんな岩いわコブだらけの崖がけの下したにいたくないのだから」
「よし、よし。今いまにうちにつくと飛とびきりの御馳走ごちそうをこしらえてやるよ」
「お前まえはもっと急いそげないのかえ。走はしっておくれ」
「なかなかこの坂道さかみちは俺おれが一人ひとりでもそうは駈かけられない難所なんしょだよ」
「お前まえも見みかけによらない意気地いくじなしだねえ。私わたしとしたことが、とんだ甲斐性かいしょなしの女房にょうぼうになってしまった。ああ、ああ。これから何なにをたよりに暮くらしたらいいのだろう」
「なにを馬鹿ばかな。これぐらいの坂道さかみちが」
「アア、もどかしいねえ。お前まえはもう疲つかれたのかえ」
「馬鹿ばかなことを。この坂道さかみちをつきぬけると、鹿しかもかなわぬように走はしってみせるから」
「でもお前まえの息いきは苦くるしそうだよ。顔色かおいろが青あおいじゃないか」
「なんでも物事ものごとの始はじめのうちはそういうものさ。今いまに勢いきおいのはずみがつけば、お前まえが背中せなかで目めを廻まわすぐらい速はやく走はしるよ」
 けれども山賊さんぞくは身体からだが節々ふしぶしからバラバラに分わかれてしまったように疲つかれていました。そしてわが家やの前まえへ辿たどりついたときには目めもくらみ耳みみもなり嗄しわがれ声ごえのひときれをふりしぼる力ちからもありません。家いえの中なかから七人しちにんの女房にょうぼうが迎むかえに出でてきましたが、山賊さんぞくは石いしのようにこわばった身体からだをほぐして背中せなかの女おんなを下おろすだけで勢一杯せいいっぱいでした。
 七人しちにんの女房にょうぼうは今迄いままでに見みかけたこともない女おんなの美うつくしさに打うたれましたが、女おんなは七人しちにんの女房にょうぼうの汚きたなさに驚おどろきました。七人しちにんの女房にょうぼうの中なかには昔むかしはかなり綺麗きれいな女おんなもいたのですが今いまは見みる影かげもありません。女おんなは薄気味悪うすきみわるがって男おとこの背せへしりぞいて、
「この山女やまめは何なんなのよ」
「これは俺おれの昔むかしの女房にょうぼうなんだよ」
 と男おとこは困こまって「昔むかしの」という文句もんくを考かんがえついて加くわえたのはとっさの返事へんじにしては良よく出来できていましたが、女おんなは容赦ようしゃがありません。
「まア、これがお前まえの女房にょうぼうかえ」
「それは、お前まえ、俺おれはお前まえのような可愛かわいい女おんながいようとは知しらなかったのだからね」
「あの女おんなを斬きり殺ころしておくれ」
 女おんなはいちばん顔形かおかたちのととのった一人ひとりを指さして叫さけびました。
「だって、お前まえ、殺ころさなくっとも、女中じょちゅうだと思おもえばいいじゃないか」
「お前まえは私わたしの亭主ていしゅを殺ころしたくせに、自分じぶんの女房にょうぼうが殺ころせないのかえ。お前まえはそれでも私わたしを女房にょうぼうにするつもりなのかえ」
 男おとこの結むすばれた口くちから呻うめきがもれました。男おとこはとびあがるように一躍ひとおどりして指さされた女おんなを斬きり倒たおしていました。然しかし、息いきつくひまもありません。
「この女おんなよ。今度こんどは、それ、この女おんなよ」
 男おとこはためらいましたが、すぐズカズカ歩あるいて行いって、女おんなの頸くびへザクリとダンビラを斬きりこみました。首くびがまだコロコロととまらぬうちに、女おんなのふっくらツヤのある透すきとおる声こえは次つぎの女おんなを指さして美うつくしく響ひびいていました。
「この女おんなよ。今度こんどは」
 指ゆびさされた女おんなは両手りょうてに顔かおをかくしてキャーという叫さけび声ごえをはりあげました。その叫さけびにふりかぶって、ダンビラは宙ちゅうを閃ひらめいて走はしりました。残のこる女おんなたちは俄にわかに一時いっときに立上たちあがって四方しほうに散ちりました。
「一人ひとりでも逃のがしたら承知しょうちしないよ。藪やぶの陰かげにも一人ひとりいるよ。上手かみてへ一人ひとり逃にげて行いくよ」
 男おとこは血刀ちがたなをふりあげて山やまの林はやしを駈かけ狂くるいました。たった一人ひとり逃にげおくれて腰こしをぬかした女おんながいました。それはいちばん醜みにくくて、ビッコの女おんなでしたが、男おとこが逃にげた女おんなを一人ひとりあまさず斬きりすてて戻もどってきて、無造作むぞうさにダンビラをふりあげますと、
「いいのよ。この女おんなだけは。これは私わたしが女中じょちゅうに使つかうから」
「ついでだから、やってしまうよ」
「バカだね。私わたしが殺ころさないでおくれと言いうのだよ」
「アア、そうか。ほんとだ」
 男おとこは血刀ちがたなを投なげすてて尻しりもちをつきました。疲つかれがどッとこみあげて目めがくらみ、土つちから生はえた尻しりのように重おもみが分わかってきました。ふと静寂せいじゃくに気きがつきました。とびたつような怖おそろしさがこみあげ、ぎょッとして振向ふりむくと、女おんなはそこにいくらかやる瀬せない風情ふぜいでたたずんでいます。男おとこは悪夢あくむからさめたような気きがしました。そして、目めも魂たましいも自然しぜんに女おんなの美うつくしさに吸すいよせられて動うごかなくなってしまいました。けれども男おとこは不安ふあんでした。どういう不安ふあんだか、なぜ、不安ふあんだか、何なにが、不安ふあんだか、彼かれには分わからぬのです。女おんなが美うつくしすぎて、彼かれの魂たましいがそれに吸すいよせられていたので、胸むねの不安ふあんの波立なみだちをさして気きにせずにいられただけです。
 なんだか、似にているようだな、と彼かれは思おもいました。似にたことが、いつか、あった、それは、と彼かれは考かんがえました。アア、そうだ、あれだ。気きがつくと彼かれはびっくりしました。
 桜さくらの森もりの満開まんかいの下したです。あの下したを通とおる時ときに似にていました。どこが、何なにが、どんな風ふうに似にているのだか分わかりません。けれども、何なにか、似にていることは、たしかでした。彼かれにはいつもそれぐらいのことしか分わからず、それから先さきは分わからなくても気きにならぬたちの男おとこでした。
 山やまの長ながい冬ふゆが終おわり、山やまのてっぺんの方ほうや谷たにのくぼみに樹きの陰かげに雪ゆきはポツポツ残のこっていましたが、やがて花はなの季節きせつが訪おとずれようとして春はるのきざしが空そらいちめんにかがやいていました。
 今年ことし、桜さくらの花はなが咲さいたら、と、彼かれは考かんがえました。花はなの下したにさしかかる時ときはまだそれほどではありません。それで思おもいきって花はなの下したへ歩あるきこみます。だんだん歩あるくうちに気きが変へんになり、前まえも後うしろも右みぎも左ひだりも、どっちを見みても上うえにかぶさる花はなばかり、森もりのまんなかに近ちかづくと怖おそろしさに盲滅法めくらめっぽうたまらなくなるのでした。今年ことしはひとつ、あの花はなざかりの林はやしのまんなかで、ジッと動うごかずに、いや、思おもいきって地じべたに坐すわってやろう、と彼かれは考かんがえました。そのとき、この女おんなもつれて行いこうか、彼かれはふと考かんがえて、女おんなの顔かおをチラと見みると、胸むなさわぎがして慌あわてて目めをそらしました。自分じぶんの肚はらが女おんなに知しれては大変たいへんだという気持きもちが、なぜだか胸むねに焼やけ残のこりました。

 

 女おんなは大変たいへんなわがまま者ものでした。どんなに心こころをこめた御馳走ごちそうをこしらえてやっても、必かならず不服ふふくを言いいました。彼かれは小鳥ことりや鹿しかをとりに山やまを走はしりました。猪いのししも熊くまもとりました。ビッコの女おんなは木きの芽めや草くさの根ねをさがしてひねもす林間りんかんをさまよいました。然しかし女おんなは満足まんぞくを示しめしたことはありません。
「毎日まいにちこんなものを私わたしに食くえというのかえ」
「だって、飛とび切きりの御馳走ごちそうなんだぜ。お前まえがここへくるまでは、十日とおかに一度いちどぐらいしかこれだけのものは食くわなかったものだ」
「お前まえは山男やまおとこだからそれでいいのだろうさ。私わたしの喉のどは通とおらないよ。こんな淋さびしい山奥やまおくで、夜よるの夜長よながにきくものと云いえば梟ふくろうの声こえばかり、せめて食たべる物ものでも都みやこに劣おとらぬおいしい物ものが食たべられないものかねえ。都みやこの風かぜがどんなものか。その都みやこの風かぜをせきとめられた私わたしの思おもいのせつなさがどんなものか、お前まえには察さっしることも出来できないのだね。お前まえは私わたしから都みやこの風かぜをもぎとって、その代かわりにお前まえの呉くれた物ものといえば鴉からすや梟ふくろうの鳴なく声こえばかり。お前まえはそれを羞はずかしいとも、むごたらしいとも思おもわないのだよ」
 女おんなの怨えんじる言葉ことばの道理どうりが男おとこには呑のみこめなかったのです。なぜなら男おとこは都みやこの風かぜがどんなものだか知しりません。見当けんとうもつかないのです。この生活せいかつ、この幸福こうふくに足たりないものがあるという事実じじつに就ついて思おもい当あたるものがない。彼かれはただ女おんなの怨えんじる風情ふぜいの切せつなさに当惑とうわくし、それをどのように処置しょちしてよいか目当めあてに就ついて何なんの事実じじつも知しらないので、もどかしさに苦くるしみました。
 今迄いままでには都みやこからの旅人たびびとを何人なんにん殺ころしたか知しれません。都みやこからの旅人たびびとは金持かねもちで所持しょじ品ひんも豪華ごうかですから、都みやこは彼かれのよい鴨かもで、せっかく所持しょじ品ひんを奪うばってみても中身なかみがつまらなかったりするとチェッこの田舎者いなかものめ、とか土百姓どびゃくしょうめとか罵ののしったもので、つまり彼かれは都みやこに就ついてはそれだけが知識ちしきの全部ぜんぶで、豪華ごうかな所持しょじ品ひんをもつ人ひと達たちのいるところであり、彼かれはそれをまきあげるという考かんがえ以外いがいに余念よねんはありませんでした。都みやこの空そらがどっちの方角ほうがくだということすらも、考かんがえてみる必要ひつようがなかったのです。
 女おんなは櫛くしだの笄こうがいだの簪かんざしだの紅べにだのを大事だいじにしました。彼かれが泥どろの手てや山やまの獣けものの血ちにぬれた手てでかすかに着物きものにふれただけでも女おんなは彼かれを叱しかりました。まるで着物きものが女おんなのいのちであるように、そしてそれをまもることが自分じぶんのつとめであるように、身みの廻まわりを清潔せいけつにさせ、家いえの手入ていれを命めいじます。その着物きものは一枚いちまいの小袖こそでと細紐ほそひもだけでは事足ことたりず、何枚なんまいかの着物きものといくつもの紐ひもと、そしてその紐ひもは妙みょうな形かたちにむすばれ不必要ふひつように垂たれ流ながされて、色々いろいろの飾かざり物ものをつけたすことによって一ひとつの姿すがたが完成かんせいされて行いくのでした。男おとこは目めを見みはりました。そして嘆声たんせいをもらしました。彼かれは納得なっとくさせられたのです。かくして一ひとつの美びが成なりたち、その美びに彼かれが満みたされている、それは疑うたぐる余地よちがない、個ことしては意味いみをもたない不完全ふかんぜんかつ不可解ふかかいな断片だんぺんが集あつまることによって一つひとつの物ものを完成かんせいする、その物ものを分解ぶんかいすれば無意味むいみなる断片だんぺんに帰きする、それを彼かれは彼かれらしく一ひとつの妙たえなる魔術まじゅつとして納得なっとくさせられたのでした。
 男おとこは山やまの木きを切きりだして女おんなの命めいじるものを作つくります。何物なにものが、そして何用なにようにつくられるのか、彼かれ自身じしんそれを作つくりつつあるうちは知しることが出来できないのでした。それは胡床こしょうと肱掛ひじかけでした。胡床こしょうはつまり椅子いすです。お天気てんきの日ひ、女おんなはこれを外そとへ出ださせて、日向ひなたに、又また、木陰こかげに、腰こしかけて目めをつぶります。部屋へやの中なかでは肱掛ひじかけにもたれて物思ものおもいにふけるような、そしてそれは、それを見みる男おとこの目めにはすべてが異様いような、なまめかしく、なやましい姿すがたに外ほかならぬのでした。魔術まじゅつは現実げんじつに行おこなわれており、彼かれ自みずからがその魔術まじゅつの助手じょしゅでありながら、その行おこなわれる魔術まじゅつの結果けっかに常つねに訝いぶかりそして嘆賞たんしょうするのでした。
 ビッコの女おんなは朝あさ毎ごとに女おんなの長ながい黒髪くろかみをくしけずります。そのために用もちいる水みずを、男おとこは谷川たにがわの特とくに遠とおい清水しみずからくみとり、そして特別とくべつそのように注意ちゅういを払はらう自分じぶんの労苦ろうくをなつかしみました。自分じぶん自身じしんが魔術まじゅつの一ひとつの力ちからになりたいということが男おとこの願ねがいになっていました。そして彼かれ自身じしんくしけずられる黒髪くろかみにわが手てを加くわえてみたいものだと思おもいます。いやよ、そんな手ては、と女おんなは男おとこを払はらいのけて叱しかります。男おとこは子供こどものように手てをひっこめて、てれながら、黒髪くろかみにツヤが立たち、結むすばれ、そして顔かおがあらわれ、一ひとつの美びが描えがかれ生うまれてくることを見果みはてぬ夢ゆめに思おもうのでした。
「こんなものがなア」
 彼かれは模様もようのある櫛くしや飾かざりのある笄こうがいをいじり廻まわしました。それは彼かれが今迄いままでは意味いみも値打ねうちもみとめることのできなかったものでしたが、今いまも尚なお、物ものと物ものとの調和ちょうわや関係かんけい、飾かざりという意味いみの批判ひはんはありません。けれども魔力まりょくが分わかります。魔力まりょくは物もののいのちでした。物ものの中なかにもいのちがあります。
「お前まえがいじってはいけないよ。なぜ毎日まいにちきまったように手てをだすのだろうね」
「不思議ふしぎなものだなア」
「何なにが不思議ふしぎなのさ」
「何なにがってこともないけどさ」
 と男おとこはてれました。彼かれには驚おどろきがありましたが、その対象たいしょうは分わからぬのです。
 そして男おとこに都みやこを怖おそれる心こころが生うまれていました。その怖おそれは恐怖きょうふではなく、知しらないということに対たいする羞恥しゅうちと不安ふあんで、物知ものしりが未知みちの事柄ことがらにいだく不安ふあんと羞恥しゅうちに似にていました。女おんなが「都みやこ」というたびに彼かれの心こころは怯おびえ戦おののきました。けれども彼かれは目めに見みえる何物なにものも怖おそれたことがなかったので、怖おそれの心こころになじみがなく、羞はじる心こころにも馴なれていません。そして彼かれは都みやこに対たいして敵意てきいだけをもちました。
 何百何千なんびゃくなんぜんの都みやこからの旅人たびびとを襲おそったが手てに立たつ者ものがなかったのだから、と彼かれは満足まんぞくして考かんがえました。どんな過去かこを思おもいだしても、裏切うらぎられ傷きずつけられる不安ふあんがありません。それに気附きづくと、彼かれは常つねに愉快ゆかいで又また誇ほこりやかでした。彼かれは女おんなの美びに対たいして自分じぶんの強つよさを対比たいひしました。そして強つよさの自覚じかくの上うえで多少たしょうの苦手にがてと見みられるものは猪いのししだけでした。その猪いのししも実際じっさいはさして怖おそるべき敵てきでもないので、彼かれはゆとりがありました。
「都みやこには牙きばのある人間にんげんがいるかい」
「弓ゆみをもったサムライがいるよ」
「ハッハッハ。弓ゆみなら俺おれは谷たにの向むこうの雀すずめの子こでも落おとすのだからな。都みやこには刀かたなが折おれてしまうような皮かわの堅かたい人間にんげんはいないだろう」
「鎧よろいをきたサムライがいるよ」
「鎧よろいは刀かたなが折おれるのか」
「折おれるよ」
「俺おれは熊くまも猪いのししも組くみ伏ふせてしまうのだからな」
「お前まえが本当ほんとうに強つよい男おとこなら、私わたしを都みやこへ連つれて行いっておくれ。お前まえの力ちからで、私わたしの欲ほしい物もの、都みやこの粋いきを私わたしの身みの廻まわりへ飾かざっておくれ。そして私わたしにシンから楽たのしい思おもいを授さずけてくれることができるなら、お前まえは本当ほんとうに強つよい男おとこなのさ」
「わけのないことだ」
 男おとこは都みやこへ行いくことに心こころをきめました。彼かれは都みやこにありとある櫛くしや笄こうがいや簪かんざしや着物きものや鏡かがみや紅べにを三日三晩みっかみばんとたたないうちに女おんなの廻まわりへ積つみあげてみせるつもりでした。何なんの気きがかりもありません。一ひとつだけ気きにかかることは、まったく都みやこに関係かんけいのない別べつなことでした。
 それは桜さくらの森もりでした。
 二日ふつかか三日みっかの後あとに森もりの満開まんかいが訪おとずれようとしていました。今年ことしこそ、彼かれは決意けついしていました。桜さくらの森もりの花はなざかりのまんなかで、身動みうごきもせずジッと坐すわっていてみせる。彼かれは毎日まいにちひそかに桜さくらの森もりへでかけて蕾つぼみのふくらみをはかっていました。あと三日みっか、彼かれは出発しゅっぱつを急いそぐ女おんなに言いいました。
「お前まえに支度したくの面倒めんどうがあるものかね」と女おんなは眉まゆをよせました。「じらさないでおくれ。都みやこが私わたしをよんでいるのだよ」
「それでも約束やくそくがあるからね」
「お前まえがかえ。この山奥やまおくに約束やくそくした誰だれがいるのさ」
「それは誰だれもいないけれども、ね。けれども、約束やくそくがあるのだよ」
「それはマア珍めずらしいことがあるものだねえ。誰だれもいなくって誰だれと約束やくそくするのだえ」
 男おとこは嘘うそがつけなくなりました。
「桜さくらの花はなが咲さくのだよ」
「桜さくらの花はなと約束やくそくしたのかえ」
「桜さくらの花はなが咲さくから、それを見みてから出掛でかけなければならないのだよ」
「どういうわけで」
「桜さくらの森もりの下したへ行いってみなければならないからだよ」
「だから、なぜ行いって見みなければならないのよ」
「花はなが咲さくからだよ」
「花はなが咲さくから、なぜさ」
「花はなの下したは冷つめたい風かぜがはりつめているからだよ」
「花はなの下したにかえ」
「花はなの下したは涯はてがないからだよ」
「花はなの下したがかえ」
 男おとこは分わからなくなってクシャクシャしました。
「私わたしも花はなの下したへ連つれて行いっておくれ」
「それは、だめだ」
 男おとこはキッパリ言いいました。
「一人ひとりでなくちゃ、だめなんだ」
 女おんなは苦笑くしょうしました。
 男おとこは苦笑くしょうというものを始はじめて見みました。そんな意地いじの悪わるい笑わらいを彼かれは今いままで知しらなかったのでした。そしてそれを彼かれは「意地いじの悪わるい」という風ふうには判断はんだんせずに、刀かたなで斬きっても斬きれないように、と判断はんだんしました。その証拠しょうこには、苦笑くしょうは彼かれの頭あたまにハンを捺おしたように刻きざみつけられてしまったからです。それは刀かたなの刃はのように思おもいだすたびにチクチク頭あたまをきりました。そして彼かれがそれを斬きることはできないのでした。
 三日目みっかめがきました。
 彼かれはひそかに出でかけました。桜さくらの森もりは満開まんかいでした。一足ひとあしふみこむとき、彼かれは女おんなの苦笑くしょうを思おもいだしました。それは今いままでに覚おぼえのない鋭するどさで頭あたまを斬きりました。それだけでもう彼かれは混乱こんらんしていました。花はなの下したの冷つめたさは涯はてのない四方しほうからドッと押おし寄よせてきました。彼かれの身体からだは忽たちまちその風かぜに吹ふきさらされて透明とうめいになり、四方しほうの風かぜはゴウゴウと吹ふき通どおり、すでに風かぜだけがはりつめているのでした。彼かれの声こえのみが叫さけびました。彼かれは走はしりました。何なんという虚空こくうでしょう。彼かれは泣なき、祈いのり、もがき、ただ逃にげ去さろうとしていました。そして、花はなの下したをぬけだしたことが分わかったとき、夢ゆめの中なかから我われにかえった同おなじ気持きもちを見出みだしました。夢ゆめと違ちがっていることは、本当ほんとうに息いきも絶たえ絶だえになっている身みの苦くるしさでありました。

 

 男おとこと女おんなとビッコの女おんなは都みやこに住すみはじめました。
 男おとこは夜毎よごとに女おんなの命めいじる邸宅ていたくへ忍しのび入いりました。着物きものや宝石ほうせきや装身具そうしんぐも持もちだしましたが、それのみが女おんなの心こころを充みたす物ものではありませんでした。女おんなの何なにより欲ほしがるものは、その家いえに住すむ人ひとの首くびでした。
 彼等かれらの家いえにはすでに何十なんじゅうの邸宅ていたくの首くびが集あつめられていました。部屋へやの四方しほうの衝立ついたてに仕切しきられて首くびは並ならべられ、ある首くびはつるされ、男おとこには首くびの数かずが多おおすぎてどれがどれやら分わからなくとも、女おんなは一々いちいち覚おぼえており、すでに毛けがぬけ、肉にくがくさり、白骨はっこつになっても、どこのたれということを覚おぼえていました。男おとこやビッコの女おんなが首くびの場所ばしょを変かえると怒いかり、ここはどこの家族かぞく、ここは誰だれの家族かぞくとやかましく言いいました。
 女おんなは毎日まいにち首くび遊あそびをしました。首くびは家来けらいをつれて散歩さんぽにでます。首くびの家族かぞくへ別べつの首くびの家族かぞくが遊あそびに来きます。首くびが恋こいをします。女おんなの首くびが男おとこの首くびをふり、又また、男おとこの首くびが女おんなの首くびをすてて女おんなの首くびを泣なかせることもありました。
 姫君ひめぎみの首くびは大納言だいなごんの首くびにだまされました。大納言だいなごんの首くびは月つきのない夜よる、姫君ひめぎみの首くびの恋こいする人ひとの首くびのふりをして忍しのんで行いって契ちぎりを結むすびます。契ちぎりの後あとに姫君ひめぎみの首くびが気きがつきます。姫君ひめぎみの首くびは大納言だいなごんの首くびを憎にくむことができず我わが身みのさだめの悲かなしさに泣ないて、尼あまになるのでした。すると大納言だいなごんの首くびは尼寺あまでらへ行いって、尼あまになった姫君ひめぎみの首くびを犯おかします。姫君ひめぎみの首くびは死しのうとしますが大納言だいなごんのささやきに負まけて尼寺あまでらを逃にげて山科やましなの里さとへかくれて大納言だいなごんの首くびのかこい者ものとなって髪かみの毛けを生はやします。姫君ひめぎみの首くびも大納言だいなごんの首くびももはや毛けがぬけ肉にくがくさりウジ虫むしがわき骨ほねがのぞけていました。二人ふたりの首くびは酒さかもりをして恋こいにたわぶれ、歯はの骨ほねと歯はの骨ほねと噛かみ合あってカチカチ鳴なり、くさった肉にくがペチャペチャくっつき合あい鼻はなもつぶれ目めの玉たまもくりぬけていました。
 ペチャペチャとくッつき二人ふたりの顔かおの形かたちがくずれるたびに女おんなは大喜おおよろこびで、けたたましく笑わらいさざめきました。
「ほれ、ホッペタを食べてやりなさい。ああおいしい。姫君ひめぎみの喉のどもたべてやりましょう。ハイ、目めの玉たまもかじりましょう。すすってやりましょうね。ハイ、ペロペロ。アラ、おいしいね。もう、たまらないのよ、ねえ、ほら、ウンとかじりついてやれ」
 女おんなはカラカラ笑わらいます。綺麗きれいな澄すんだ笑わらい声ごえです。薄うすい陶器とうきが鳴なるような爽さわやかな声こえでした。
 坊主ぼうずの首くびもありました。坊主ぼうずの首くびは女おんなに憎にくがられていました。いつも悪わるい役やくをふられ、憎にくまれて、嬲なぶり殺ごろしにされたり、役人やくにんに処刑しょけいされたりしました。坊主ぼうずの首くびは首くびになって後あとに却かえって毛けが生はえ、やがてその毛けもぬけてくさりはて、白骨はっこつになりました。白骨はっこつになると、女おんなは別べつの坊主ぼうずの首くびを持もってくるように命めいじました。新あたらしい坊主ぼうずの首くびはまだうら若わかい水々みずみずしい稚子ちごの美うつくしさが残のこっていました。女おんなはよろこんで机つくえにのせ酒さけをふくませ頬ほおずりして舐なめたりくすぐったりしましたが、じきあきました。
「もっと太ふとった憎にくたらしい首くびよ」
 女おんなは命めいじました。男おとこは面倒めんどうになって五いつツほどブラさげて来きました。ヨボヨボの老僧ろうそうの首くびも、眉まゆの太ふとい頬ほっぺたの厚あつい、蛙かえるがしがみついているような鼻はなの形かたちの顔かおもありました。耳みみのとがった馬うまのような坊主ぼうずの首くびも、ひどく神妙しんみょうな首くびの坊主ぼうずもあります。けれども女おんなの気きに入いったのは一ひとつでした。それは五十ごじゅうぐらいの大坊主おおぼうずの首くびで、ブ男おとこで目尻めじりがたれ、頬ほおがたるみ、唇くちびるが厚あつくて、その重おもさで口くちがあいているようなだらしのない首くびでした。女おんなはたれた目尻めじりの両端りょうたんを両手りょうての指ゆびの先さきで押おさえて、クリクリと吊つりあげて廻まわしたり、獅子鼻ししばなの孔あなへ二本にほんの棒ぼうをさしこんだり、逆さかさに立たててころがしたり、だきしめて自分じぶんのお乳ちちを厚あつい唇くちびるの間あいだへ押おしこんでシャブらせたりして大笑おおわらいしました。けれどもじきにあきました。
 美うつくしい娘むすめの首くびがありました。清きよらかな静しずかな高貴こうきな首くびでした。子供こどもっぽくて、そのくせ死しんだ顔かおですから妙みょうに大人おとなびた憂うれいがあり、閉とじられたマブタの奥おくに楽たのしい思おもいも悲かなしい思おもいもマセた思おもいも一度いちどにゴッちゃに隠かくされているようでした。女おんなはその首くびを自分じぶんの娘むすめか妹いもうとのように可愛かわいがりました。黒くろい髪かみの毛けをすいてやり、顔かおにお化粧けしょうしてやりました。ああでもない、こうでもないと念ねんを入いれて、花はなの香かおりのむらだつようなやさしい顔かおが浮うきあがりました。
 娘むすめの首くびのために、一人ひとりの若わかい貴公子きこうしの首くびが必要ひつようでした。貴公子きこうしの首くびも念入ねんいりにお化粧けしょうされ、二人ふたりの若者わかものの首くびは燃もえ狂くるうような恋こいの遊あそびにふけります。すねたり、怒おこったり、憎にくんだり、嘘うそをついたり、だましたり、悲かなしい顔かおをしてみせたり、けれども二人ふたりの情熱じょうねつが一度いちどに燃もえあがるときは一人ひとりの火ひがめいめい他ほかの一人ひとりを焼やきこがしてどっちも焼やかれて舞まいあがる火焔かえんになって燃もえまじりました。けれども間まもなく悪侍あくざむらいだの色好いろごのみの大人おとなだの悪僧あくそうだの汚きたない首くびが邪魔じゃまにでて、貴公子きこうしの首くびは蹴けられて打うたれたあげくに殺ころされて、右みぎから左ひだりから前まえから後うしろから汚きたない首くびがゴチャゴチャ娘むすめに挑いどみかかって、娘むすめの首くびには汚きたない首くびの腐くさった肉にくがへばりつき、牙きばのような歯はに食くいつかれ、鼻はなの先さきが欠かけたり、毛けがむしられたりします。すると女おんなは娘むすめの首くびを針はりでつついて穴あなをあけ、小刀こがたなで切きったり、えぐったり、誰だれの首くびよりも汚きたならしい目めも当あてられない首くびにして投なげだすのでした。
 男おとこは都みやこを嫌きらいました。都みやこの珍めずらしさも馴なれてしまうと、なじめない気持きもちばかりが残のこりました。彼かれも都みやこでは人並ひとなみに水干すいかんを着きても脛すねをだして歩あるいていました。白昼はくちゅうは刀かたなをさすことも出来できません。市いちへ買物かいものに行いかなければなりませんし、白首しろくびのいる居酒屋いざかやで酒さけをのんでも金かねを払はらわねばなりません。市いちの商人しょうにんは彼かれをなぶりました。野菜やさいをつんで売うりにくる田舎女いなかおんなも子供こどもまでなぶりました。白首しろくびも彼かれを笑わらいました。都みやこでは貴族きぞくは牛車ぎっしゃで道みちのまんなかを通とおります。水干すいかんをきた跣足はだしの家来けらいはたいがいふるまい酒さけに顔かおを赤あかくして威張いばりちらして歩あるいて行いきました。彼かれはマヌケだのバカだのノロマだのと市いちでも路上ろじょうでもお寺てらの庭にわでも怒鳴どなられました。それでもうそれぐらいのことには腹はらが立たたなくなっていました。
 男おとこは何なによりも退屈たいくつに苦くるしみました。人間にんげん共どもというものは退屈たいくつなものだ、と彼かれはつくづく思おもいました。彼かれはつまり人間にんげんがうるさいのでした。大おおきな犬いぬが歩あるいていると、小ちいさな犬いぬが吠ほえます。男おとこは吠ほえられる犬いぬのようなものでした。彼かれはひがんだり嫉ねたんだりすねたり考かんがえたりすることが嫌きらいでした。山やまの獣けものや樹きや川かわや鳥とりはうるさくはなかったがな、と彼かれは思おもいました。
「都みやこは退屈たいくつなところだなア」と彼かれはビッコの女おんなに言いいました。「お前まえは山やまへ帰かえりたいと思おもわないか」
「私わたしは都みやこは退屈たいくつではないからね」
 とビッコの女おんなは答こたえました。ビッコの女おんなは一日中いちにちじゅう料理りょうりをこしらえ洗濯せんたくし近所きんじょの人ひと達たちとお喋しゃべりしていました。
「都みやこではお喋しゃべりができるから退屈たいくつしないよ。私わたしは山やまは退屈たいくつで嫌きらいさ」
「お前まえはお喋しゃべりが退屈たいくつでないのか」
「あたりまえさ。誰だれだって喋しゃべっていれば退屈たいくつしないものだよ」
「俺おれは喋しゃべれば喋しゃべるほど退屈たいくつするのになあ」
「お前まえは喋しゃべらないから退屈たいくつなのさ」
「そんなことがあるものか。喋しゃべると退屈たいくつするから喋しゃべらないのだ」
「でも喋しゃべってごらんよ。きっと退屈たいくつを忘わすれるから」
「何なにを」
「何なんでも喋しゃべりたいことをさ」
「喋しゃべりたいことなんかあるものか」
 男おとこはいまいましがってアクビをしました。
 都みやこにも山やまがありました。然しかし、山やまの上うえには寺てらがあったり庵いおりがあったり、そして、そこには却かえって多おおくの人ひとの往来おうらいがありました。山やまから都みやこが一目ひとめに見みえます。なんというたくさんの家いえだろう。そして、なんという汚きたない眺ながめだろう、と思おもいました。
 彼かれは毎晩まいばん人ひとを殺ころしていることを昼ひるは殆ほとんど忘わすれていました。なぜなら彼かれは人ひとを殺ころすことにも退屈たいくつしているからでした。何なにも興味きょうみはありません。刀かたなで叩たたくと首くびがポロリと落おちているだけでした。首くびはやわらかいものでした。骨ほねの手応てごたえはまったく感かんじることがないもので、大根だいこんを斬きるのと同おなじようなものでした。その首くびの重おもさの方ほうが彼かれには余程よほど意外いがいでした。
 彼かれには女おんなの気持きもちが分わかるような気きがしました。鐘かねつき堂どうでは一人ひとりの坊主ぼうずがヤケになって鐘かねをついています。何なんというバカげたことをやるのだろうと彼かれは思おもいました。何なにをやりだすか分わかりません。こういう奴等やつらと顔かおを見合みあって暮くらすとしたら、俺おれでも奴等やつらを首くびにして一緒いっしょに暮くらすことを選えらぶだろうさ、と思おもうのでした。
 けれども彼かれは女おんなの欲望よくぼうにキリがないので、そのことにも退屈たいくつしていたのでした。女おんなの欲望よくぼうは、いわば常つねにキリもなく空そらを直線ちょくせんに飛とびつづけている鳥とりのようなものでした。休やすむひまなく常つねに直線ちょくせんに飛とびつづけているのです。その鳥とりは疲つかれません。常つねに爽快そうかいに風かぜをきり、スイスイと小気味こきみよく無限むげんに飛とびつづけているのでした。
 けれども彼かれはただの鳥とりでした。枝えだから枝えだを飛とび廻まわり、たまに谷たにを渉わたるぐらいがせいぜいで、枝えだにとまってうたたねしている梟ふくろうにも似にていました。彼かれは敏捷びんしょうでした。全身ぜんしんがよく動うごき、よく歩あるき、動作どうさは生いき生いきしていました。彼かれの心こころは然しかし尻しりの重おもたい鳥とりなのでした。彼かれは無限むげんに直線ちょくせんに飛とぶことなどは思おもいもよらないのです。
 男おとこは山やまの上うえから都みやこの空そらを眺ながめています。その空そらを一羽いちわの鳥とりが直線ちょくせんに飛とんで行いきます。空そらは昼ひるから夜よるになり、夜よるから昼ひるになり、無限むげんの明暗めいあんがくりかえしつづきます。その涯はてに何なにもなくいつまでたってもただ無限むげんの明暗めいあんがあるだけ、男おとこは無限むげんを事実じじつに於おいて納得なっとくすることができません。その先さきの日ひ、その先さきの日ひ、その又また先さきの日ひ、明暗めいあんの無限むげんのくりかえしを考かんがえます。彼かれの頭あたまは割われそうになりました。それは考かんがえの疲つかれでなしに、考かんがえの苦くるしさのためでした。
 家いえへ帰かえると、女おんなはいつものように首くび遊あびに耽ふけっていました。彼かれの姿すがたを見みると、女おんなは待まち構かまえていたのでした。
「今夜こんやは白拍子しらびょうしの首くびを持もってきておくれ。とびきり美うつくしい白拍子しらびょうしの首くびだよ。舞まいを舞まわせるのだから。私わたしが今様いまようを唄うたってきかせてあげるよ」
 男おとこはさっき山やまの上うえから見みつめていた無限むげんの明暗めいあんを思おもいだそうとしました。この部屋へやがあのいつまでも涯はてのない無限むげんの明暗めいあんのくりかえしの空そらの筈はずですが、それはもう思おもいだすことができません。そして女おんなは鳥とりではなしに、やっぱり美うつくしいいつもの女おんなでありました。けれども彼かれは答えました。
「俺おれは厭いやだよ」
 女おんなはびっくりしました。そのあげくに笑わらいだしました。
「おやおや。お前まえも臆病風おくびょうかぜに吹ふかれたの。お前まえもただの弱虫よわむしね」
「そんな弱虫よわむしじゃないのだ」
「じゃ、何なにさ」
「キリがないから厭いやになったのさ」
「あら、おかしいね。なんでもキリがないものよ。毎日まいにち毎日まいにちごはんを食たべて、キリがないじゃないか。毎日まいにち毎日まいにちねむって、キリがないじゃないか」
「それと違ちがうのだ」
「どんな風ふうに違ちがうのよ」
 男おとこは返事へんじにつまりました。けれども違ちがうと思おもいました。それで言いいくるめられる苦くるしさを逃のがれて外そとへ出でました。
「白拍子しらびょうしの首くびをもっておいで」
 女おんなの声こえが後うしろから呼よびかけましたが、彼かれは答こたえませんでした。
 彼かれはなぜ、どんな風ふうに違ちがうのだろうと考かんがえましたが分わかりません。だんだん夜よるになりました。彼かれは又また山やまの上うえへ登のぼりました。もう空そらも見みえなくなっていました。
 彼かれは気きがつくと、空そらが落おちてくることを考かんがえていました。空そらが落おちてきます。彼かれは首くびをしめつけられるように苦くるしんでいました。それは女おんなを殺ころすことでした。
 空そらの無限むげんの明暗めいあんを走はしりつづけることは、女おんなを殺ころすことによって、とめることができます。そして、空そらは落おちてきます。彼かれはホッとすることができます。然しかし、彼かれの心臓しんぞうには孔あながあいているのでした。彼かれの胸むねから鳥とりの姿すがたが飛とび去さり、掻かき消きえているのでした。
 あの女おんなが俺おれなんだろうか? そして空そらを無限むげんに直線ちょくせんに飛とぶ鳥とりが俺おれ自身じしんだったのだろうか? と彼かれは疑うたぐりました。女おんなを殺ころすと、俺おれを殺ころしてしまうのだろうか。俺おれは何なにを考かんがえているのだろう?
 なぜ空そらを落おとさねばならないのだか、それも分わからなくなっていました。あらゆる想念そうねんが捉とらえがたいものでありました。そして想念そうねんのひいたあとに残のこるものは苦痛くつうのみでした。夜よるが明あけました。彼かれは女おんなのいる家いえへ戻もどる勇気ゆうきが失うしなわれていました。そして数日すうじつ、山中さんちゅうをさまよいました。
 ある朝あさ、目めがさめると、彼かれは桜さくらの花はなの下したにねていました。その桜さくらの木きは一本いっぽんでした。桜さくらの木きは満開まんかいでした。彼かれは驚おどろいて飛とび起おきましたが、それは逃にげだすためではありません。なぜなら、たった一本いっぽんの桜さくらの木きでしたから。彼かれは鈴鹿すずかの山やまの桜さくらの森もりのことを突然とつぜん思おもいだしていたのでした。あの山やまの桜さくらの森もりも花盛はなざかりにちがいありません。彼かれはなつかしさに吾われを忘わすれ、深ふかい物もの思おもいに沈しずみました。
 山やまへ帰かえろう。山やまへ帰かえるのだ。なぜこの単純たんじゅんなことを忘わすれていたのだろう? そして、なぜ空そらを落おすことなどを考かんがえ耽ふけっていたのだろう? 彼かれは悪夢あくむのさめた思おもいがしました。救すくわれた思おもいがしました。今いままでその知覚ちかくまで失うしなっていた山やまの早春そうしゅんの匂においが身みにせまって強つよく冷つめたく分わかるのでした。
 男おとこは家いえへ帰かえりました。
 女おんなは嬉うれしげに彼かれを迎むかえました。
「どこへ行いっていたのさ。無理むりなことを言いってお前まえを苦くるしめてすまなかったわね。でも、お前まえがいなくなってからの私わたしの淋さびしさを察さっしておくれな」
 女おんながこんなにやさしいことは今いままでにないことでした。男おとこの胸むねは痛いたみました。もうすこしで彼かれの決意けついはとけて消きえてしまいそうです。けれども彼かれは思おもい決けっしました。
「俺おれは山やまへ帰かえることにしたよ」
「私わたしを残のこしてかえ。そんなむごたらしいことがどうしてお前まえの心こころに棲すむようになったのだろう」
 女おんなの眼めは怒いかりに燃もえました。その顔かおは裏切うらぎられた口惜くやしさで一いっぱいでした。
「お前まえはいつからそんな薄情者はくじょうものになったのよ」
「だからさ。俺おれは都みやこがきらいなんだ」
「私わたしという者ものがいてもかえ」
「俺おれは都みやこに住すんでいたくないだけなんだ」
「でも、私わたしがいるじゃないか。お前まえは私わたしが嫌きらいになったのかえ。私わたしはお前まえのいない留守るすはお前まえのことばかり考かんがえていたのだよ」
 女おんなの目めに涙なみだの滴しずくが宿やどりました。女おんなの目めに涙なみだの宿やどったのは始はじめてのことでした。女おんなの顔かおにはもはや怒いかりは消きえていました。つれなさを恨うらむ切せつなさのみが溢あふれていました。
「だってお前まえは都みやこでなきゃ住すむことができないのだろう。俺おれは山やまでなきゃ住すんでいられないのだ」
「私わたしはお前まえと一緒いっしょでなきゃ生いきていられないのだよ。私わたしの思おもいがお前まえには分わからないのかねえ」
「でも俺おれは山やまでなきゃ住すんでいられないのだぜ」
「だから、お前まえが山やまへ帰かえるなら、私わたしも一緒いっしょに山やまへ帰かえるよ。私わたしはたとえ一日いちにちでもお前まえと離はなれて生いきていられないのだもの」
 女おんなの目めは涙なみだにぬれていました。男おとこの胸むねに顔かおを押おしあてて熱あつい涙なみだをながしました。涙なみだの熱あつさは男おとこの胸むねにしみました。
 たしかに、女おんなは男おとこなしでは生いきられなくなっていました。新あたらしい首くびは女おんなのいのちでした。そしてその首くびを女おんなのためにもたらす者ものは彼かれの外そとにはなかったからです。彼かれは女おんなの一部いちぶでした。女おんなはそれを放はなすわけにいきません。男おとこのノスタルジイがみたされたとき、再ふたたび都みやこへつれもどす確信かくしんが女おんなにはあるのでした。
「でもお前まえは山やまで暮くらせるかえ」
「お前まえと一緒いっしょならどこででも暮くらすことができるよ」
「山やまにはお前まえの欲ほしがるような首くびがないのだぜ」
「お前まえと首くびと、どっちか一ひとつを選えらばなければならないなら、私わたしは首くびをあきらめるよ」
 夢ゆめではないかと男おとこは疑うたぐりました。あまり嬉うれしすぎて信しんじられないからでした。夢ゆめにすらこんな願ねがってもないことは考かんがえることが出来できなかったのでした。
 彼かれの胸むねは新あらたな希望きぼうでいっぱいでした。その訪おとずれは唐突とうとつで乱暴らんぼうで、今いまのさっき迄までの苦くるしい思おもいが、もはや捉とらえがたい彼方かなたへ距へだてられていました。彼かれはこんなにやさしくはなかった昨日きのうまでの女おんなのことも忘わすれました。今いまと明日あしたがあるだけでした。
 二人ふたりは直ただちに出発しゅっぱつしました。ビッコの女おんなは残のこすことにしました。そして出発しゅっぱつのとき、女おんなはビッコの女おんなに向むかって、じき帰かえってくるから待まっておいで、とひそかに言いい残のこしました。

 

 目めの前まえに昔むかしの山々やまやまの姿すがたが現あらわれました。呼よべば答こたえるようでした。旧道きゅうどうをとることにしました。その道みちはもう踏ふむ人ひとがなく、道みちの姿すがたは消きえ失うせて、ただの林はやし、ただの山やま坂さかになっていました。その道みちを行いくと、桜さくらの森もりの下したを通とおることになるのでした。
「背負せおっておくれ。こんな道みちのない山坂やまさかは私わたしは歩あるくことができないよ」
「ああ、いいとも」
 男おとこは軽々かるがると女おんなを背負せおいました。
 男おとこは始はじめて女おんなを得えた日ひのことを思おもいだしました。その日ひも彼かれは女おんなを背負せおって峠とうげのあちら側がわの山径やまみちを登のぼったのでした。その日ひも幸しあわせで一いっぱいでしたが、今日きょうの幸しあわせはさらに豊ゆたかなものでした。
「はじめてお前まえに会あった日ひもオンブして貰もらったわね」
 と、女おんなも思おもいだして、言いいました。
「俺おれもそれを思おもいだしていたのだぜ」
 男おとこは嬉うれしそうに笑わらいました。
「ほら、見みえるだろう。あれがみんな俺おれの山やまだ。谷たにも木きも鳥とりも雲くもまで俺おれの山やまさ。山やまはいいなあ。走はしってみたくなるじゃないか。都みやこではそんなことはなかったからな」
「始はじめての日ひはオンブしてお前まえを走はしらせたものだったわね」
「ほんとだ。ずいぶん疲つかれて、目めがまわったものさ」
 男おとこは桜さくらの森もりの花はなざかりを忘わすれてはいませんでした。然しかし、この幸福こうふくな日ひに、あの森もりの花はなざかりの下したが何なにほどのものでしょうか。彼かれは怖おそれていませんでした。
 そして桜さくらの森もりが彼かれの眼前がんぜんに現あらわれてきました。まさしく一面いちめんの満開まんかいでした。風かぜに吹ふかれた花はなびらがパラパラと落おちています。土つち肌はだの上うえは一面いちめんに花はなびらがしかれていました。この花はなびらはどこから落おちてきたのだろう? なぜなら、花はなびらの一ひとひらが落おちたとも思おもわれぬ満開まんかいの花はなのふさが見みはるかす頭上ずじょうにひろがっているからでした。
 男おとこは満開まんかいの花はなの下したへ歩あるきこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷つめたくなるようでした。彼かれはふと女おんなの手てが冷つめたくなっているのに気きがつきました。俄にわかに不安ふあんになりました。とっさに彼かれは分わかりました。女おんなが鬼おにであることを。突然とつぜんどッという冷つめたい風かぜが花はなの下したの四方しほうの涯はてから吹ふきよせていました。
 男おとこの背中せなかにしがみついているのは、全身ぜんしんが紫色むらさきいろの顔かおの大おおきな老婆ろうばでした。その口くちは耳みみまでさけ、ちぢくれた髪かみの毛けは緑みどりでした。男おとこは走はしりました。振ふり落おとそうとしました。鬼おにの手てに力ちからがこもり彼かれの喉のどにくいこみました。彼かれの目めは見みえなくなろうとしました。彼かれは夢中むちゅうでした。全身ぜんしんの力ちからをこめて鬼おにの手てをゆるめました。その手ての隙間すきまから首くびをぬくと、背中せなかをすべって、どさりと鬼おには落おちました。今度こんどは彼かれが鬼おにに組くみつく番ばんでした。鬼おにの首くびをしめました。そして彼かれがふと気付きづいたとき、彼かれは全身ぜんしんの力ちからをこめて女おんなの首くびをしめつけ、そして女おんなはすでに息いき絶たえていました。
 彼かれの目めは霞かすんでいました。彼かれはより大おおきく目めを見開みひらくことを試こころみましたが、それによって視覚しかくが戻もどってきたように感かんじることができませんでした。なぜなら、彼かれのしめ殺ころしたのはさっきと変かわらず矢張やはり女おんなで、同おなじ女おんなの屍体したいがそこに在あるばかりだからでありました。
 彼かれの呼吸こきゅうはとまりました。彼かれの力ちからも、彼かれの思念しねんも、すべてが同時どうじにとまりました。女おんなの屍体したいの上うえには、すでに幾いくつかの桜さくらの花はなびらが落おちてきました。彼かれは女おんなをゆさぶりました。呼よびました。抱だきました。徒労とろうでした。彼かれはワッと泣なきふしました。たぶん彼かれがこの山やまに住すみついてから、この日ひまで、泣ないたことはなかったでしょう。そして彼かれが自然しぜんに我われにかえったとき、彼かれの背せには白しろい花はなびらがつもっていました。
 そこは桜さくらの森もりのちょうどまんなかのあたりでした。四方しほうの涯はては花はなにかくれて奥おくが見みえませんでした。日頃ひごろのような怖おそれや不安ふあんは消きえていました。花はなの涯はてから吹ふきよせる冷つめたい風かぜもありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花はなびらが散ちりつづけているばかりでした。彼かれは始はじめて桜さくらの森もりの満開まんかいの下したに坐すわっていました。いつまでもそこに坐すわっていることができます。彼かれはもう帰かえるところがないのですから。
 桜さくらの森もりの満開まんかいの下したの秘密ひみつは誰だれにも今いまも分わかりません。あるいは「孤独こどく」というものであったかも知しれません。なぜなら、男おとこはもはや孤独こどくを怖おそれる必要ひつようがなかったのです。彼かれ自みずからが孤独こどく自体じたいでありました。
 彼かれは始はじめて四方しほうを見廻みまわしました。頭上ずじょうに花はながありました。その下したにひっそりと無限むげんの虚空こくうがみちていました。ひそひそと花はなが降ふります。それだけのことです。外そとには何なんの秘密ひみつもないのでした。
 ほど経へて彼かれはただ一ひとつのなまあたたかな何物なにものかを感かんじました。そしてそれが彼かれ自身じしんの胸むねの悲かなしみであることに気きがつきました。花はなと虚空こくうの冴さえた冷つめたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分わかりかけてくるのでした。
 彼かれは女おんなの顔かおの上うえの花はなびらをとってやろうとしました。彼かれの手てが女おんなの顔かおにとどこうとした時ときに、何なにか変かわったことが起おこったように思おもわれました。すると、彼かれの手ての下したには降ふりつもった花はなびらばかりで、女おんなの姿すがたは掻かき消きえてただ幾いくつかの花はなびらになっていました。そして、その花はなびらを掻かき分わけようとした彼かれの手ても彼かれの身体からだも延のばした時ときにはもはや消きえていました。あとに花はなびらと、冷つめたい虚空こくうがはりつめているばかりでした。


女の残忍な性格は鬼故なのか、それともその性格故に鬼になってしまったのか。
その理由をどちらに持ってくるかで、女の印象が結構変わりますね。
そして、山賊が美しい桜の景色の中でふと自分が孤独であることを感じさせられる場面は、ただこの山賊だけが感じたものとは違うような気がします。
同じように私たちも、ふとした時に孤独を感じてしまうのかもしれません。
では、次回の作品もお楽しみに。

引用元:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/index.html)
底本:「坂口安吾全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1990(平成2)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「いづこへ」真光社
1947(昭和22)年5月15日発行
初出:「肉体 第一巻第一号」暁社
1947(昭和22)年6月15日発行
入力:砂場清隆
校正:高柳典子
2006年1月11日作成
2011年5月22日修正

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